「正義」という快楽(1)

「人という字は──」

誰でも一度は聞いたことがあるだろう金八先生の名言です。正確な文言は覚えてませんが、人と人とが互いに支え合ってできている、というようなことを言っていて、ぼくも小さいころはそれを字源(字形の由来)として信じていました。
実は違う、ということに気がついたのは、小学校高学年だか中学だかのとき。ここでは公表していないぼくの苗字は初対面の人では基本的に読めない難読字なので、それをきっかけに漢字に興味をもつようになり。とはいっても白川静を読むほどではないんですが(^^; それはともかく。
小学校の後半にはすでにぼくは本の虫でしたので、ことわざや故事成語、四字熟語等の辞典類、そして漢和辞典をも読みあさるようになっていました。図書館から本を借りてきて、ジャポニカ学習帳に「書き取り」までしていたのは小学生らしいというか何というか、というところですが(^^;; そんなこんなで、漢字のできかたにはいくつか決まった方式があること、世の多くの漢字がその中でも「形声文字」に属すること等といったことを知り、その中で「人」という字の本来の字源をも知ることとなったのです。


で、最近知ったんですが、金八先生、こんなことも言っていたんですね。

「正しいという字は、一に止まると書きます」

で、ひとつ止まって、正しく考えるようにしてください、とか何とか。この発言は字源について語っているわけではなくて、いわゆるひとつの「いい話」をしているのだ、ということは明らかなのですが、しかし実際「正」という字は「一」+「止」から成り立った字ではあるのです。意味的にだいぶ違ってはいますが。
「正」をかたちづくる「一」はもとは「□」という形をしており、「□」は部首でいう「くにがまえ」であって、「くに」を意味しています。また「止」は、足あとが二つ並んだ形から生まれた「歩」という字について考えるとわかりやすいかもしれませんが、足の形を示します。
国+足。これは(他)国に向かって「いく」ということを指し、「正」という字の原義は「征」に受け継がれています。要するに、遠征する、征服する、というのが「正」という字のもともとの意味なんですね。これが転じて、ただす、ただしい、ということになっていきました。
字源と、その字が現代において担っている意味とは必ずしも論理的なつながりがあるわけではありませんが、それでもここに何かしら大きな示唆を読み取らずにはおれません。


「正しい」とは、ちょっと恐いことばなのだ、ということ。


ぼくは昔から「正しい」ということにこだわる人間でして、それが高じて出生以来入信していた宗教を棄てることとなりました。
「何が正しいのか」ということ、これはとても大事なことです。しかし、そればかり強調しすぎて、「どうして正しいのか」「なぜ正しいことは良いことなのか」への意識が疎かになってしまうと、“正しい・義”であるところの「正義」は、その字源が指し示すように「大義名分」へと変貌を遂げてしまいます。
「正義」は、取扱注意の危険な概念であると、ぼくはつねづね自戒を心がけ……ようとしていたりしていなかったり(^^;


ところで、英語で「正義」を意味する語「justice」には、こんな話があります。


裁判所などで「目隠しをした女神の像」を見たことがありませんか? ……そうそうないですよね、スミマセン(^^;
これは、ギリシャローマ神話に出てくる一柱の神で、ギリシャ神話では「テミス」と呼ばれています。外見に特徴があり、まず目隠しをしている。そして、右手に剣を、左手に天秤を提げています。このことは「先入見をもたず、公平に裁く」ということを意味しています。その姿が示すとおり、この女神が司るのは「掟」そして「正義」です。
ローマ神話でこれに対応するのは、「ユスティティア」という女神*1。この名はローマ字でこのように書きます。「Justitia」、と。この名前はラテン語で「正義」を意味することばであり、それが英語の「justice」の語源となったと言われています。


というところで、今回はここまで。

*1:さらに余談ですが、このユスティティアに対応すると言われるギリシャ神話の神は何柱かおり、その中に「アストライア」がありますが、この名はラテン語で「星乙女」(アストロ-エア)を意味します。この女神は天に昇って星になったのでその名前がついていますが、その星が「おとめ座」。この女神はユスティティアに対応する“正義の女神”であり、だから「おとめ座」は、ぼくたちが思い浮かべがちな“かよわい”存在とはだいぶ違ったものなわけです、実のところ。ちなみに、アストライアのもっていた天秤が「てんびん座」になったと言われています。