「正義」という快楽(2)

テレビや新聞などで聞いたニュースを肴に話をしていると、ことの「善悪」に一歩踏みこんだとたんにガラリと様子の変わる人、というのをぼくはよく見かけます。
一転して神経質そうな仏頂面になって、いかにも自分は真面目な話をしているんだというような、ふざけた発言は許さないぞ的な、要するに自分は正義の体現者であり、裁定者であるのだといったような、そんな“ふるまい”をする人が多いように、ぼくには思われます。
これはいったい何なのか。


「真偽」の問題というのは、突きつめて言えば、ある事物が“ある”のかそれとも“無い”のか、ということに尽きるように思われます。だから、その問題を解決するもっともラジカルな(根本的な)方法は「ごちゃごちゃ言う前に、まず探せ」ということになるでしょう。
真偽の問題を探求する学問の典型である自然科学は、実際そうして見つかることをもとに議論を進めます。社会科学や臨床心理学は、自然科学に比べて対象が不明確であるぶんだけ解釈に幅が生じ、それに応じて多くの立場が乱立することになりますが、それにしたって現に生じたできごとをもとに議論を進めていく点ではこれもまた「真偽」に関わる学問なのであり、それに触れているかどうかでその対象領域について思考をめぐらす際の精度が違ってきます。
しかし、「善悪」の問題は、その答えが探せば見つかるものでないことは、予め保証されていることなんですね。答えが見つからないということは、ぼくの感覚から言えば、自分の回答に確信がもちにくいためにより謙虚になりそうなものですが、そうならないのがこの社会のムジュンなのです。


それはなぜか。
その議論を担っている人は誰か、ということに注目すると見えてきます。


答えは探すものであるとしたら、その議論の仕方にはあまり幅が無く、自由度も低いことでしょう。そうなると、そのような議論の仕方に習熟し特化することがその分野に携わる者にとっての“至上命題”となり、専門性が増すことでしょう。逆に言うと、そのような学問の客観性が保証しにくいその度合いによって、その分野の専門性は低下し、議論の自由度が高まります。また、高度に専門化された分野にくらべ、そうでない領域のほうが一般に“より身近”であることともあいまって、「しろうとの参入」が進みます。
また一般に、「正しい」ことより「善い」ことのほうが価値が高く、「間違う」ことより「悪い」ことのほうが価値が低く見積もられることも*1、この問題領域の“集客力”を高めます。そのようにして、話す内容がテレビワイドショーに登場する「コメンテーター」なる人々の言と大同小異の「お茶の間コメンテーター」が大量発生するという事態を引き起こすわけです。
「お茶の間コメンテーター」のようなタイプの人は、ふだんあまりものを考えないタイプの人です。それは、テレビのコメンテーターの言ったことを受け売りしていることからも明らかでしょう*2。そしてこの種の人々は「偉い人がそう言ってた」からそれは「正しい」と短絡してしまいやすい人たちでもあります。


人は、笑ったり泣いたりするだけでなく、怒って他人を殴ることによっても大きなカタルシスを得る、そういう存在です。そして、先に述べたような受け売りを通して、自らを「至高善」を体現する“神”の位置に擬し、他者を罰するということには、まぎれもなく「快」=「気持ちよさ」が伴うものなのです。
参入しやすく、そしてそのことによって大きな快をお手軽に手に入れられるとしたら、誰もがそこに殺到するのは自明の理。そのようにして人々はごく簡単に、口々に「人権」「差別」「平等」また「伝統」「文化」「国家」といった“おまじない”を唱える*3「正義の味方」、というよりは「善の“手先”」となっていくわけです。もちろん、こういった「善の手先」は、逆の立場から見たら「悪の手先」以外の何ものでもないのですが……(^^;*4
とにもかくにも、「地獄への道は善意で舗装されている」という、マルクスか誰かのことばを肝に銘じておく必要があることでしょう。


もう一つ、「善悪」の問題にかかわると人々の態度が“硬化”する原因を指摘するなら、「真偽」の問題に比べ「善悪」の問題は、より主観的な分だけ自分の責任分担が大きくなるから、ということが言えるでしょう。
つまり、「真偽」の問題について間違いが指摘されたとき、その誤りは対象の問題として切り離すことが可能ですが、「善悪」の問題についてはそうはいきません。「善悪」の問題に対する自分の回答への否定は、ダイレクトに“自分の否定”として跳ね返ってきがちなんであって、こと「善悪」の場合、「誤り」は同時に「過ち」なのです。だから、大げさな言い方をすれば、「善悪」について自分の意見を述べるということは、自分の存在をそこにかけるということでもあるわけで、絶対に負けられません。だからこそ余計に人々はその態度を硬くするのです。


倫理学」という分野について少しでもかじったことのある人なら了解されることと思いますが、この学問領域にはかなりの蓄積があり、一朝一夕には太刀打ちできない専門性の高さがあります。複雑で難しい問題はたくさん存在し、それらについて冷静かつ粛々と合理的な議論が積み重ねられています。
ぼくは、お茶の間コメンテーターたちの話を耳にするたびに「不勉強なことだなあ」と思わずにはいられないのですが、これは倫理学の側にも自分たちの仕事の宣伝不足という問題が、あるのかもしれません。

*1:それらは正に「次元の違う」ことであって比較できないはずなのですが、しかしそれらのもたらす「効用」に限って言えばそれは問題になりません。

*2:テレビワイドショーのコメンテーターとして出ている人々が程度の低い学者のたぐいであると、ぼくは言いたいわけではありません。ただ、テレビワイドショーの場合、発言の時間がひどく限られていること、キャスターや他のコメンテーターなど周囲の人間の存在から生じる「同調圧力」、そしてテレビ局や自分の所属先あるいはお茶の間などをひっくるめた“世間”から発せられる目に見えない圧力の存在等々から、誰であれコメンテーターとして発言すれば、“常識”を再確認するだけのような、毒にも薬にもならない凡庸で無難なコメントに終始するしかないことでしょう。

*3:これらは彼らにとって、意味がわからなくても唱えるだけで不思議な力のわいてくる「おまじない」として正に機能しています。「自由」と「平等」とが究極的には相容れない概念であること、「レディファースト」がたいていの「フェミニズム」とは相容れない概念であることなど、彼らは理解していませんし、一向に気にする様子もありません。だから、たいていの場合にこれら6つの単語が同じ人から発されるということも、別段不思議なことではないのです。

*4:近頃命名された「ネットイナゴ」も、ことの本質をその様子からズバリ言い当てたうまい表現だと思います。