新城カズマ『ライトノベル「超」入門』

「新書」ということばの英訳がもしその字面どおりに「novel」であったなら、この本ほど「ライトノベル」ということばの当てはまる本も珍しい、などと思いました(^^;


題名は“「超」入門”とありますが、少なくともぼくの見るかぎり、この本はいわゆる「入門書」ではないです。ヘンな言い方をすることが許されるなら、「関門書」とでも呼びたいところ。
どういうことか、と言いますと。この本を読んでみて、それでも「ライトノベルを読んでみたい」と思える人、このノリについてこられる人、あるいは過去にライトノベルの読者だった人、今現在読者である人、遠からず読者となる予定の人(だけ)を残さんと、ライトノベル読者(候補生)をフルイにかけるような“関門”として、本書はあるのだ、ということです。


本書に次のようなくだりがあります。

大学にはいるためのプラスになるでもよし、人生の教訓になるでもよし、とにかくそういう意味で「役に立つ=ためになる」。そんな考え方で小説を読む人たちが、どうやらこの世には存在してる……ということこそ、僕にとっては不思議なんです。
なんで「面白いだけ」で読んじゃいけないんだろう。べつに「それだけ」でもいいじゃないですか。そのうえで役に立つことがあるのはかまわないですけど、「役に立たなければいけない」みたいな発想は僕にはよくわからんです、正直いって。(p.253)

ぼくにもよくわからんです、正直いって。
小中学校で課される「読書感想文」なる課題を、ぼくはずっとバカバカしく思っていました。「なぜ“面白いだけで読んじゃいけない”のか」。ぼくは“面白”がってさまざまな本に手を出します。そのおかげで、一般的な水準から見ればずっと多くの本を読み、いろいろなことを吸収してきました。まずは“面白”く本を読もう。それでいいじゃないですか。そう考えると、ハッキリ“つまらない”本ばかりを課題図書として強要するあの「読書感想文」なるものは、ぼくの目には「本嫌いを量産するためのどこぞの誰だかの陰謀」に思えてしかたがありませんでした。
今となっては、もう一つ別の見方もできる、と考えています。「読書感想文」の社会的機能を一歩引いた場所から見つめなおしてみるならば、そこには「当の課題をこなせるような人間以外をフルイにかけて落とす」という機能が備わっていることがわかります。「本嫌いの量産」は、オツムの不自由な一部の人々による行ないの意図されざる結果、というわけではなく、実はもともとそれを目的として“故意に”なされていたのではないか、と*1。そういう言い方をするならこれもまた一つのアヤシゲな陰謀論であるには違いないですが(^^; もうちょっと積極的に捉えるなら、要は大学入試などと変わらないわけです。
……と、ここまできて、先に述べた本書についての話と、今述べたことが“ネジレながらつながっている”ことに気がつかれたでしょうか?


「面白いというだけで読んでいいじゃないか」と、著者は訴えています。本書の内容もおおむねそういった雰囲気をかもしだしています。しかしここにはもう一つ重要な問題があることに注意しなければなりません。それは「“誰にとって”面白いのか」ということ、です。
そのことについても本書の中ではたくさんの言及がなされます。「ライトノベル」という呼び名がデファクトスタンダードとなる前に存在したこの種の小説群に対するいろいろのジャンル名……「ジュブナイル」とか「ヤングアダルト」とか「ティーンズ文庫」といったものについての議論もそうですし、また著者独自のことばづかいによる「ネクタイびと」という“ある種の”人たちに貼られたレッテル、等々。
ぼくが本書を読んでまず思ったことは、「オタク話をそのまま活字にしたみたいだ」ということでした。説明不足なまま繰り出される固有名詞の数々*2、「行き当たりばったり」に見えなくもないダラダラとしてまとまりに欠ける構成。この、文体に限らず本書全体の流れに至るまで蔓延する“オタクフレーバー”は、ぼくの目には明らかに「一見さんお断り」と言っているように見え、そのことによって「ライトノベルの面白さ」を伝え損ねており、「わかる人にだけわかる」ような本にしかなっていない、と思われました。
これをぼくは、しかし「入門書として失敗している」とは思いません。わかっててわざとやっている、ぼくにはそう感じられるからです。


もう一度繰り返します。本書は、「ライトノベルの入門書」ではありません。そうではなくて、「ライトノベル」という代物について、著者が考えをめぐらせてきたあれこれを集めてみたもの、なのです。
この本の“面白い”ところは、本書の最後のほうで著者自身が明かしていますが、「ライトノベル」というものを「週刊少年漫画誌」に近い一つの“経済現象”として捉えるその視点です。なぜ「ライトノベル」は“ライト”なのか。どうして挿絵は水彩画からセル画へと移行していったのか。挙句の果てには、巻末に付した「ライトノベル関連年表」に「日経平均株価」と「公定歩合」のグラフを併記してしまうところまで突き進んでいきます。
以前にもチラッと書いたかと思うんですが、ぼくは、人の世に起こることを“社会的”な現象として、とりわけ“経済的”な現象として分析してみることが肝要なことだと思っています。本書はぶっちゃけ、オタク話をとりとめもなくダラダラと書きつらねたスカスカな(=ライトな)本であることは否定しようのない事実ですが、それでも、このような見方の重要性を改めて気づかせてくれた点で元はとれた気がしました(^^;


……と、以上のような言及のしかたをするぼくは、ライトノベルの外野に存する著者言うところの“ネクタイびと”でしょうか。
ヒントは上記文中にもありますが、『ロードス島戦記ISBN:4044604010聖エルザクルセイダーズISBN:4044603014「角川文庫」で読んでいて、『フォーチュン・クエストISBN:4840221014ンである、と述べておきましょう。ちなみに本書の中で言及された本も8割ほどは読んでたりします。
もう一つ付け加えると、そうして読んだ中でぼくの一番好きな作品が『蓬莱学園の初恋!』ISBN:4829124091、今から15〜6年ほど前、世田谷の公民館で行なわれたあるイベントでその小説の著者*3と会ったことがあるんですね〜(^^;;;

*1:であるなら、「今どきの若者は本を読まない」という命題が仮に真であるとして、それはそのような教育の当然の帰結なのではないか、と言うことだってできなくもないわけです。とはいえ、ぼくはその命題自体を少なくとも当為のレベルでは受け入れてませんけどもね。

*2:“いわゆる”オタク用語もそうですが、それに限らず、たとえば「プロップ」(ウラジミール=プロップ)だとか「ボルヘス」(ホルヘ=ルイス=ボルヘス)といった文学系の人名に至るまで多くの“専門用語”が説明抜きに突然飛び出してきます。

*3:その小説の著者の名前を知ればわかることですが、本書の著者と同じ人です。イベントでは別の名前を名乗ってましたけどね。……と言えば、そのことと開催時期とから、知っている人はぼくが何のイベントに行ったのかがわかるはず。