「若者論」者の欺瞞を見破るためのいくつかの論点(1)

3連休で雨が降って家を出られなかったので、書きました(^^;
前回からの流れになりますが、主題としては切れているのでエントリのタイトルを変えてます。


テレビや新聞、週刊誌、あるいはblog、はたまた世間の“空談”といったメディアによって人口に膾炙する「若者論」のたぐいに、ぼくは強い拒否感を覚えます。
その一番の理由は、指弾を受けている当の「若者」にぼく自身が含まれるから、ということからくる不愉快さです(^^;;;

そのことを正直に認めたうえで、それでもなお、そうした議論を吹聴する人たちが、ぼくの目にはあまりものを考えているようには見えないというか、頭が悪そうに思われるんですね。
というのも、彼らがそのような話をする際、常に、ぼくが疑問に思う以下の論点のほぼすべてを華麗にスルーしていくからです。でも、その議論の正当性や妥当性といったことは、これらをきちんと踏まえずには保証されえないはずのものだろう、とぼくには思われるんですがいかがでしょう。毎度常にスルーされるということは、実はぼくのアタマのほうがおかしかったりするんでしょうか?(^^;

  • あなたの「若者論」が、あなたが「若者」だった当時あなた自身に浴びせられた「若者論」と、些末な固有名称を除いてほとんど何も変わらないように見えるのだけれど、それについて何かコメントを。

まず最初に説明(釈明)してもらいたいのがこれですね。

これは軽いジャブとして、さっさと本題に移りましょう。

  • 論者の「現状認識」は本当に正しいのか。
  • 論者が比較対象にしている「往時の社会の認識」は本当に正しいのか。

以上のポイントによって、「若者論」者の言及している「若者」像が、当の論者の“妄想”でないかどうかをチェックします。
たとえば、「少年犯罪は過去に比べてひどく凶悪化している」という“お話”がありますが、国の発行している『犯罪白書』のようなデータブックをひもとけば、言われていることとはだいぶ異なる世相が見えてくる、ということは、まだ「常識」になってはいないとしても、「定説」になりつつあると言えるでしょう。

“天下の”東大出版会から『少年犯罪』ISBN:4130332031英がどこかで「私が間違ってました、すみませんでした」と謝ったという話を、ぼくはまだ耳にしていません。


ここで少し、“「若者論」的三段論法”の検討をしてみましょう。この論法の典型は次のような形をしています。

大前提:昔は〜だった
小前提:今は〜だ
結論:よって今は悪い

このように整理してみるだけで、この論法の“穴”がハッキリします。
先述の二つの論点はこの論法の両前提の妥当性(の無さ)をついたものですが、その次にすぐ見つかるのは、なぜこの二つの前提からこの結論が出てくるのだろう、という論理の流れというか「論理的整合性」の問題でしょう*1。というわけで、次に問うべきはそこです。

  • 論者が現状を悪とし、過去の一時点の状態を善とするその「価値観」は妥当なものか。

そんなこと言って、それは単にあなたの独りよがりじゃないんですか、ということです。
この論点は、次のような方向へ広げることもできます。

  • 論者の議論にどこまでの時間的・空間的な「射程」があるのか。
  • 論者が比較対象として選んだ社会の「選び方」は妥当なのか。

「過労について」というタイトルのエントリで触れましたが、人々が今のようにキリキリ働くようになったのは人類の歴史からいってつい最近のことです。今どきの若者の勤労意欲が云々という議論は、その前提となる「価値ある社会状態の事例」として、自分たちの議論に都合のよいごく一部のケースをとりあげている疑いがあります。
「「いただきます」って言ってますか?」というエントリでは、「日本の伝統」と呼ばれ尊敬を強要されているいくつかのものが、やはりつい最近つくられたものではないか、との疑いを提示しています。巷間言われることのある「理科離れ」にしても、ぼくにはたまたま理科系の人気が高かったある一時代との比較で云々しているだけのように思われますしね。頂上と比べたら、その山のどんな場所だって「低い」ということになるのは当たり前のことだと思うんですが。
もし、多くの「若者論」者が現にそうしているように、他人を指弾するために自分に都合のいいデータばかりをアドホックに選んで持ちだしていいのだとしたら、まっとうな議論など何も成り立たないでしょう*2


つづきは次回に。

*1:これは倫理学の初歩ですが、「〜は〜である」という「事実」について述べられた命題から、「〜は〜すべきである」という「価値」について述べられた命題を、論理的に導くことはできません。ということは、この前提と結論のあいだに、事実の問題を価値の問題へと変換する、何らかの価値観を表明した(はずの)命題が隠れています。この「隠された前提」を暴きだし、その妥当性を吟味する作業が、ここでは必要になります。

*2:「発想を逆転させるのよ、なるほどくん!」
ではありませんが(^^; このことを逆に見れば、つまり彼ら「若者論」者にはそもそも「まっとうな議論をするつもりなど無い」のだ、と考えることはできないでしょうか。「若者論」が発表される媒体の性格などからしても、学的な議論なんかじゃなくて、ただの愚痴に箔をつけようとしているだけのようにぼくには思われます。