「若者論」者の欺瞞を見破るためのいくつかの論点(3)

前回からストレートにつづきます。「B」とか「P」等の意味については、前回のエントリを参照してくださいね。……と、前置きしたところで、いざ。


nature or nurture、「氏か育ちか」という問題に関わって、「たかが数十年ぐらいで人間の先天的特質が変わるはずもないので、人々の行動が変わったのなら、それは社会環境が変わったことによるのだ」というようなことを以前宮台真司が言っていたのですが、ぼくもそれに同意します*1
ぼくは、今の若者が過去の若者より何かとてつもなく悪い存在になったというようなお話には事実の裏づけがない限り基本的に耳を貸しませんが、その時代時代で若者の行動様式Bに違いのある(だろう)ことは認めます。一方、若者の成員たる個々人の特質pはそれぞれに大きな違いがありうるでしょうが、それらを合計した(あるいは平均した)Pについては、確率論に言う「大数の法則」を思い起こしてみるなら、各時代でそう違いがあるとは思えません。Pに違いがないのにBが異なっているのだとすれば、それは先の宮台発言を引きなおすまでもなく、Eの変化によって引き起こされているのではないか、レヴィンの式から素直に考えればそうなりますよね。
心理学の一流派である行動分析学のことばを借りるなら、Pがいけない、若者が悪い、と言い張りつづけることは「個人攻撃のわな」にハマっている、と言えます。行動分析学では「行動は、それに先行する状況やそれに後続するだろう状況によって(応じて)引き起こされる」という考え方をしますが、だとすれば、行動というものはその状況への何らかの“適応”の形式であると考えることもできます。


人間の行動原理そのものは、進化論的スパンで見るのでもないかぎりその時代時代で大した変化のあるはずもなく、ただ、その原理が参照する状況・環境に違いがあることによって、「行動」という見た目の変化が生じるのだ。
ぼくは基本的に、そう考えます。


同じ行動原理にのっとって行動しているにも関わらず、その参照できる資源の違いが、二人にまったく正反対の行動をとらせることがある、一つのケースをあげてみましょう。

「マメな男はモテる」

と、よく言われますよね。ぼくもたしかにそう思います。だから「コミュニケーションスキルを磨け!(それが漢じゃ)」ということも、合わせてよく言われています。ミヤディーも言ってました。
しかし、ここでちょっと立ち止まってみましょう。AとBという二人の男と、平均的男性像を表わす仮想の男Oがいるとします。……と書き出すと、以前にも使ったロジックなので、この後ぼくがどんなことを言うか予想のつく方もいるかと思いますが(^^; ここで、容姿や声に代表される「外見面での」性的魅力の点で、この三者の間に「A>>O>>B」の関係が成り立つとします。
性的魅力が容姿や声といった内面以外の要素に強く規定されることはミもフタもない事実であると言ってよいでしょう。そのことを踏まえると、こんなマトリクスが描けます。

 
マメである モテる モテる モテない
マメでない モテる モテない モテない


容姿に優れた男性であっても、性格がかなり内向的であった場合にはあまり魅力的とは見なされない、という対人心理学の研究を踏まえるなら、マメでないA型の男にも「モテない」可能性はありますが、それを抜きにしても、このマトリクスの全体を眺めれば「マメな男はモテる(可能性が高い)」ということは言えそうです。
言えそうですがしかし、Bに限って言えば、マメだろうが何だろうがモテません。同じモテない、というだけなら、B型人間がマメであるかそうでないか、その可能性は確率的に半々ということになりますが、実際にはそうはならない。なぜなら、これは他のどんなことにも当てはまることですが、対人関係にも「コスト-ベネフィット」ということがもちろんついて回るからです。
「マメである」ことそれ自体はかなりのエネルギーを消費することであり、それだけ大きな(精神的・時間的・経済的)コストを支払います。そのコストを超えるベネフィットをその関係から汲み出すことができるとき、その関係に対してコストを支払うことには積極的な“意味”があります。そのことを踏まえて先のマトリクスを見直してみるとどうでしょうか。Aは、少ないコストで多くのベネフィットを得ることでしょうし、Oは、やり方次第で支払うコスト以上の見返りを得ることもできるでしょう。
しかし、Bについては状況がガラリと変わります。Bは、そもそもベネフィットを得ることそれ自体にかかるコストがAやOの比ではなく、コストを上回るベネフィットを得にくい状況に置かれています。それだけでなく、そもそも関係をつくろうとして近づけば「キモい」とか言われて、コストの見返りがコストである(!)ことすらありえます。がんばればがんばるほどコストばかりがかさんでいくとしたら、最適な戦略は「そもそもがんばらないこと」であるはず。だとすれば、予めモテないことが決まっている人間は、マメになりようがありません*2
AとBの対人関係戦略、その行動原理は「対人関係におけるベネフィットを最大化する」というものであり、その点で違いはありません。しかし、実際の行動様式はと言えば、Aは積極的であり、Bは消極的である、という感じでまったくの正反対です。同じ行動原理が正反対の行動を結果する、その原因は、AおよびBそれぞれが持っていた「性的魅力」という資源の差でした。


ここで話を元に戻しますが、行動原理が同じでも、参照したり利用したりすることのできる資源・環境に違いがあれば、このように結果として表われる行動には、ときに正反対となるほどの大きな違いが生じます。
たとえば、昔の人は皆結婚したのに今どきの若者は結婚しなくなった、という現象について、その結果だけを見ると大きな違いはあるけれども、昔の人が結婚し、今の人が結婚しなくなったそのおおもとの理由は“実は”同じものである可能性がある、と考えることもできるようになりますし、実際そう言える部分が大きいのじゃないか、などと、家族社会学や対人関係論についていろいろ渉猟してみてぼくはそう感じています。
昔の人が「えらい」と誉められたことを、今の人が同じ理由から別の手段で実現しようとしたらそれを絶対悪であるかのように難じられるとしたら、ぼくは納得できません。仮にその行為が悪であったとしても、その行為の理由について考えれば何らかの酌量がなされてしかるべきじゃないか、とぼくは思いますし、その行為を招いたのがその人個人の問題というよりはその人が利用できた資源・環境の問題であるとしたら、そちらを何とかするのがスジではないか、とも思います。
実際、行動分析学を臨床心理学の手法として応用した「行動療法」というものは、何らかの理由で“問題”とされた当の行動を直すのに、その行動と結びついている状況を変化させることによって行動の生起条件をつぶす、という方法を採ります*3。そういう方向でものを考えていくことも必要じゃないかな、とぼくは思います。


とはいえ、ここで急いで付け加えておかなければいけないことですが、この最後の論点まで辿りついた「若者論」というものを、ぼくは寡聞にして知りません。行動の「悪」性を言うなら、ぼくには「今どきの若者」よりよほど「昔の若者」のしていたことのほうが問題だったと思います*4
にも関わらず、その「今どきの若者」を狙い撃ちにするような「環境操作」を行なうことには、何の正当性もないはずです。
ぼくが社会の「ゼロトレランス」化に反対するのは、正にこのためです。昔の人間のほうがよっぽど悪いこと・ひどいことをしてきたのに、なんで今の人間がそんなにきつく絞られなければならないのか。今の人間を絞ったからって何かがどうにかなるのか、それは“八つ当たり”じゃないのか、と。そうした「ゼロトレランス」な政策を推し進める側が“最凶世代”というのは、これはいったい何の冗談なんだ、と言いたくもなりますよ、ホント(−−;;

*1:とはいっても、ぼくは巷の「社会構築主義」の人たちが言うほどには、人間はそんなに環境からの影響を受けない、とも考えています。なぜなら、人間には「ヒトであること」という強力な生物学的制約があって、その限界を超えてまで変わるわけではないからです。スティーブン=ピンカー『人間の本性を考える』ISBN:4140910100、ドナルド=ブラウン『ヒューマン・ユニヴァーサルズ』ISBN:4788508125、といった本も参照してみてください。

*2:思い起こしてください。「マメな男はモテる」という命題の対偶は「モテない男はマメでない」ということです。……冗談ですが(^^;

*3:数土直紀(すど=なおき)が『自由という服従ISBN:4334032869たのは、環境の側に存する条件が人々の行動を規定することによりある種の不合理な社会状態が出来しているのであって、その状況を変革するためには環境操作やむなしということであったと思います。そうすると同じ元ネタ(フーコー)から「環境管理型権力」が云々、とか言いだす人々が出てきますが、数土の議論はある種の社会状態に善悪の判断を下した後はほぼストレートな論理的演繹によって出てきたものなので、環境管理の善し悪しを云々する前に考えるべきことがあるんじゃないか、とぼくなんかは思ってしまいます(^^;

*4:「ゲーム」が、「有害図書(マンガ)」が、「子供には見せたくないテレビ番組」が、そして「ネット」が、それに接する人間(=若者)を暴力的にし、また性犯罪に走らせる、という議論はしばしば目にするものです。しかし、前にも引いたように「事実」の問題としてその議論にはまったく裏づけがなく、それどころか「事実」はその逆の事態を示しているようにすら見えます。ぼく自身がきちんと裏をとったわけではありませんが、こんなグラフも見かけました。「幼女強姦被害数とエロゲーの歴史」http://animemokubaza.hp.infoseek.co.jp/eroge.gif