認知的負荷とXTMemoの新用法

以前から何度か紹介しているXTMemo、またバージョンアップしました。バグフィックスが中心のようです。気になる方はどうぞ。


ちょうどまた新しくXTMemoのファイルが増えたところでした。
XTMemoでは、メモのまとまりである「ファイル」を数多くつくることが公式に非推奨とされていますし、UIもファイルを多数つくるのに向いた形にはなっていません。ファイルの一覧はメモの左側にデスクトップアイコンのように列をなして並んでいるんですが、登録される要素の数が多い場合にはアイコン式よりメニュー式のほうが一覧性が高くて向いていると思われますし、実際そのような使い方をするランチャー系のソフトの多くはメニュー式を採用しています。
一つあるいは少数の入れ物になんでもつっこんで、それをカテゴリ(タグ)なり内容なりで検索して引っぱり出すというのは、ウェブページを対象に「はてなブックマーク」のようなソーシャルブックマークサービスでも実現されています。しかし、こないだ紹介した「XTMemoで本のチェックリストをつくる方法」に対応するはてブの「コレクション」など、少なくともぼくのしたいことについてはかなり使い勝手が悪いように感じられます。ウェブページへの“ツバつけ”、あるいはそれを元にしたコミュニケーションを主な目的とするSBS*1と、手元のメモとでは、期待される使い方がもともとだいぶ異なるわけですね。
で、内容の違いはもちろんですが、それよりも主に「用途・使い方」に応じて、ぼくはXTMemoでファイルを分けています。そのため、新しい使い方を試すたびにファイルが一つ二つと増えていくことに。


今回新しく始めたのは、「単語帳」みたいなことです。
現在、新しい仕事のために朝から晩まで勉強をしている毎日ですが、未経験の業種であることもあって知らねばならないことが膨大で、そのとっかかりもなくて途方に暮れがちなのです。こんな状況でしなければならないのは何よりもまず、「自分が何を知らないのかを知ること」。知らないことが多いのは当然なんですから、そこは開き直って、それでも知りたいことがいつでも引き出せるようにする“仕掛け”が必要になります。


これは何にでも言えることですし、だからぼくはこれまで何度も同じことを言ってきたわけですが、人間の能力にはハッキリと限界があります。脳の容量は無限でなく、覚えられることも注意を払っていられることもごくわずか。人生は一度きりで、残された時間は刻一刻と減り続けています。そういう制約条件の下、ぼくらは最大の(≒なけなしの)効用を得るためにせいいっぱいがんばるわけですから、大事なことは「何でもかんでも抱え込む」ことではありえません。
覚えなくてもいいことは極力覚えないで済ますこと。考えなくてもいいことは極力考えないで済ますこと。そして、悩まなくてもいいことは極力悩まないで済ますこと。ヒトが生きていくのに現実に採っている戦略はこういうものですし、そしてそれは実際“適応的”なのです。
大企業で、社長が経営から営業から開発から何から、すべてをこなしているなんて話は聞いたことがありません。原始時代に比べればもちろんのこと、江戸時代、あるいはもっと近い明治・大正時代、さらに戦後しばらくに比べても遥かに複雑な現代社会において、一人の人間の人生の営みそのものが大企業の運営に匹敵する難事業と言えます。自分の力で何でもかんでも、なんてことは現実にはありえません。それは、そういうことが声高に唱道されるきっかけとなったデカルト以後の近代哲学の流れによっても、実際に成し遂げられはしませんでした*2
「自分の頭で考えない若者が増えている」「すぐにマスコミに踊らされる」なんて言説は未だに後を絶ちませんが、ぼくに言わせれば、そう言うあなたたちだってどれだけのことを本当に自分の頭で考えているのか、何かあるたびに「マスコミに踊らされて……」と言いたがるけれども、あなたのその“若者論”はマスコミによって捏造されたものではないのか、そして、自分の頭で考えること、マスコミに踊らされないことというのは、あなたたちが言うほどに価値あることなのか、そういう問題をそれこそ自分の頭で考えたことがあるのか、と、ぼくは問い返したい思いがいつもしています*3


脱線が過ぎました(^^;
今回の件にからんだ話に限れば、要は膨大な業務知識のすべてを知るなんてことは、とりわけ初心者にとってはどだい無理な注文なのであって、必要なことは具体的な詳細を知るよりもまず全体的な見取り図、パースペクティブを自分の中にもっておくことだろうと思います。それは実際には、ヘンな言い方になりますが、「リファレンスならぬリファレンス」のようなものであるべき、とぼくは考えます。
リファレンスとは一般に、関連する知識を漏らさずコンパクトにまとめたものですが、見取り図を得るには、それでもまだ詳しすぎる。広辞苑一冊を前に「日本語の見取り図を描く」なんてことが可能でないのと同じことです。そんなものがポンと頭に入るわけがない。人間の能力(の限界)を考えたら、必要なのは知識ベースを頭に叩きこむことではなくて、それへのアクセスの仕方を知ること、そして覚えることがあるとしても、その量は索引程度にとどめられるべきなのです。しかし一方、索引というのは五十音順に並んでいることが多くそれだけ見ても見取り図が描きにくいし、また純粋に索引だけが用意されているということも実際にはほとんどないわけですね。


なければつくってしまえ。


ということで、つくることにしました。
仕事をしながら、わからないことが出てきたり、知らないことばを耳にしたりします。それをできる限り手元のメモにつけておく。具体的な内容まで知っている必要は全然ありません。ググれば出てきますから(^^; で、家に帰ってきたときに、それをザッと検索にかけてみます。たくさんのサイトがヒットしますが、一つ一つクリックして見ていく必要はありません。ただ、結果として表示されているその周囲の文言に注意します。頻出する単語、あるいは心に引っかかるピンときたフレーズをチェックしていき、XTMemoにメモするのです。カテゴリは適当につけておいて、メモの題名は検索ワードにし、中身にチェックしたことばを一行ごとにズラズラ並べていきます。それでその日はおしまい。
後からそれを見返して、今度はそこに載っている単語を検索にかけてみます。メモ自体はほんとに味も深みもないただの単語の羅列にしかすぎないんですが、この操作を繰り返していくと、頭の中にインデックスが形成されていって、だんだんと「なんとなくわかった」気になってきます。そしてこのことがとても重要なんです。
わからないと頭を抱えるより、何も知らないし何の根拠もないけどなんだかやっていけそうな気がする。意欲の点でこれだけ大きなメリットがあります。それに、こういうことは数当てゲームと同じで、「1より大きな数」という情報からではほとんど何もわかりませんが、「3より小さな数」という情報も目の端に入ってくるだけで、「あ、わかった」というようになることは往々にしてあります。その意味でも、少ないデータだけからうんうん唸って考えているヒマがあるなら、たくさんのデータを採り入れて全体の見取り図をつくってしまったほうが経済的にも精神的にもいいことが多い、というのがぼくの実感です。


メモというものは、ものごとを「忘れない」ためにつけるものではありません。その逆に、それを積極的に「忘れる」ためにつけるのです。なぜなら、人間の頭はたくさんのことを詰め込めるようにはできていないのですから。いま必要なことだけ頭の中に入れておいて、その他のことは全部メモにしまっておき、一段落して頭の中が片づいたら順次頭の中に取りこんでいく、そういう使い方こそがメモの極意なのです。
ぼくはたくさんの本を読んでいて、日がな一日考え事をしているぶんだけ、平均的な人より多くのことを知っていますが、だからといって記憶力がいいというわけではありません*4。ただ、ものを知るための「方法」を知っていて、ものを知るための「努力」をしています。ぼくが何かあるたびに四次元ポケットからメモ帳を取り出して書きこんでいるのは、そういうことなんです。

*1:2011-05-08追記:「SBS」=ソーシャルブックマークサービス。当時はこう言われていたと思うので説明なしで書いてましたが、いま見るとこの略称で何を言っているのかよくわからないと思ったので注を入れました。

*2:「進化」を強調したダーウィン、あるいは「権力への意志」のニーチェ、「無意識」のフロイト、「下部構造」のマルクス。『自由からの逃走』のエーリッヒ=フロム、そして、「言語ゲーム」やら「ラング」やら「作者の死」やら「パノプティコン」やら何やら、と、その後の現代思想の流れは明らかに「人間の主体性」というものを疑う方向に向かいました。認識論でも「社会認識論」が出てきて、人間の信念こそが確実性の根拠であるというデカルト的テーゼが覆されてしまったのも、時代の必然と言えるでしょう。

*3:これは前にも書いたと思いますが、自分の議論が拠って立つ前提、とりわけ意識しづらい“暗黙の了解”を取り出して丹念に吟味していくことこそが「(哲学的に)考える」ということなのであって、「最近の若者は○○の点でなっていない」と言い出す前に、本当に“自分の頭でものを考え”られるような人であるならば、いったん立ち止まって「昔の人間だって○○の点でなっていたと本当に言えるのだろうか」「そもそも○○がなっているということはそんなに善いことなのか」と自省することでしょう。

*4:ぼくの実家の人間に聞いてみれば、「hideoはもの覚えが悪い」と言うことでしょう。そしてそれは、当たっているとぼくも思います。