マトモな哲学のすすめ(3)

マトモな哲学と「高校倫理」の違い

前回は「マトモな哲学」の“マトモな”という点に重きを置いた入門書の紹介をしました。今回は“哲学”のほうに焦点を当ててみたいと思います。


これは以前にも書きましたが、ぼくは高校で倫理の授業を受けられなかったということもあり、哲学はほぼ独学で学びつづけている人間なのですが、後になって「そのことでぼくはごく基本的なことすら知らずにいるのじゃないか」と気になりだし、高校倫理のアンチョコを購入しました。それを読むことによって、ぼくはとてもホッとしたのです。「なんだ、こんなの受けれなくてよかったじゃないか」。というのも、それはただの暗記教科になりさがっていて、哲学にとって大事なことがスッポリ抜け落ちているように感じられたからでした。
前回紹介したのは、その哲学の大事な部分の中でも、「どのように考えるのが正しいのか」ということを教える本でした。
このことは、高校倫理を“受けさせられた”人にとってはまったく想定外の「哲学の見方」なのではないかと思います。なぜなら、高校倫理の印象からでは、哲学というものが「コムズカシくて何だかわけのわからないたとえ話や、一見イミシンぽいお言葉をありがたがるもの」のようにしか感じられなかっただろうからです。だから、人によって宗教と哲学が同じものと考えられたりもするのです。
一般的な「哲学」という言葉の使われ方には、「人生哲学」「経営哲学」あるいはプロ野球選手・監督の「野球哲学」といったような用法もあります。この場合の「哲学」はほぼ“理念”または“信念”の同意語と言ってよいでしょう。それは学問としての哲学とは別ものなんですが、「哲学」という言葉に対するそうした解釈が生まれるのも、先に述べたような倫理の授業内容を鑑みれば、むべなるかな、という思いがします。


ぼくはこう考えます。(マトモな)哲学とは何よりもまず、「正しいと言えるものの考え方を探求すること」なのだ、と。
だからこそ、「“正しく考える”にはいったいどうしたらいいのか」ということがその出発点とならねばならないのです。この根本をなおざりにして、どんなマトモな哲学的営為もありえない、とぼくは思います*1


「どのように考えるべきか」ということが大問題なら、それと同時に、同様に大問題となることがあります。「何を考えるべきか」、そして「なぜ考えるべきなのか」。
数学の定理や物理学の法則を「誰が発見したのか」ということは、数学や物理学という学問そのものにとっては、「○○の法則」の○○が別の名前に置き換わるに過ぎない、というぐらいの二の次の問題と言うこともできます。ぼくは、哲学も、究極的にはそう受けとられるようになるべきだと思っています。というのも、“正しい”こと、というのはある程度限られたいくつかの答えに収束するものであって、でないのだとしたら、“正しい”ということばがいったい何を意味しているか、わからなくなるからです。そして、その“正しい”を目がけるというその定義上、哲学もそのような境位に至ることだろう、とぼくは想像しています*2。以下は野矢茂樹のことば(『哲学の謎』あとがき)。

本書においてそれが誰の議論であるかはどうでもよいのである。ここには謎があり、謎をめぐる議論がある。そういうことなのだ。

高校倫理の頭だと「哲学の歴史」というものが、個々の哲学者が自分勝手に適当な独り言を言いあっていて、たまに意見がぶつかって論争が起こるも、ウヤムヤのままただ歴史として記録されていくだけ、というイメージになりかねません。後から後から新しい神様が現れて、いったいどの神様の言うことが本当に正しいんだろうというような新興宗教の状況と、そのイメージは似ているように思われます。
しかし、哲学も実はその昔から「積み上げ」がつづいているのです。過去の哲学者の考えを学ぶことには“車輪の再発明”をしないことや温故知新といった一定の利益があると言えますし、また、「何を」「なぜ」考えるのかという問題を前にしたとき、それぞれの時代のさまざまな哲学者が立ち向かった哲学的問題、それに対する哲学的格闘の姿には学ぶところが多いはずです。


次回はブックガイド第二弾です。

*1:哲学の講義ではまず最初に「ベン図」を教えるべきだ、とすら思うこともありますが、それはさすがに行き過ぎだろうという気がしないでもありません(^^;

*2:こういう考え方なので、ぼくは、最新科学の議論の中に昔の○○という哲学者の考えによく似たモチーフのあることをもって、「○○の復権」「よみがえる○○」といったキャッチコピーを仰々しくつけるやり方を好ましいものと思いません。科学的に立証されるなら、その問題はすでに「科学」の問題なのであって、哲学はその役目を終えていると言うべきです。もしこれにコピーをつけるとするなら、「○○の復権」ではなく「○○の終焉」としたほうが妥当ではないかとぼくは思います。