マトモな哲学のすすめ(4)

マトモな哲学のためのブックガイド・その2

マトモな哲学入門書の紹介第二弾です。
前回紹介した本には哲学者の名前がほとんど出てきませんが、今回はそういうわけで哲学者の仕事に言及する“より一般的な”哲学入門書を採りあげました。


哲学のモノサシ

哲学のモノサシ

自分と世界をつなぐ哲学の練習問題

自分と世界をつなぐ哲学の練習問題

「ぶん・西研、え・川村易」で描いた絵本、のような本です。下の『はじめての哲学史』の挿絵も川村易が描いています。哲学者の紹介はありますが、専門用語が散りばめられていないので読みやすいでしょう。ただし、ほんとの絵本ではないので中学生以上でないと読みこなせないと思います(^^;
「哲学はどうやってはじまったのか」「生きてる実感のうすい人がなぜふえている」「自分と社会はどうつながっているか」など、この二冊は、どんな問題が哲学にはあり、それはどのように考えられるか、そして過去の哲学者はどう考えたか、ということが述べられています。「問題」が話の中心になっており、またそれを具体的に「自分(の実存)の問題」として引き受けていく著者の誠実な姿勢とあいまって、話の筋を追いやすく引きこまれる本だと思います。
とりわけ『哲学の練習問題』のほうは、新聞連載ということもあって一問一答を短めにまとめていますが、その書名のとおりに哲学的問題のケースブックとして読むことができます。


はじめての哲学史―強く深く考えるために (有斐閣アルマ)

はじめての哲学史―強く深く考えるために (有斐閣アルマ)

大人のための哲学授業―「世界と自分」をもっと深く知るために

大人のための哲学授業―「世界と自分」をもっと深く知るために

この二冊は前の二冊に比べると、「哲学者」を中心に年代別・内容別に編集するという標準的な「倫理」の教科書の体裁に近いまとめ方になっており、文体もやや硬め(とはいえ哲学書の相場からいったらとても柔らかい)ですが、こちらも、各時代に個々の哲学者が、どんなモチーフに切実さを感じてその学説を練り上げたのか、その仕事の「意義」に力点を置いた紹介となっています。副題もそれぞれ「強く深く考えるために」「「世界と自分」をもっと深く知るために」となっていて、その意気込みが感じられます。
以上の四冊いずれも「哲学には意味がある」ということを力強く訴える良書。


ここまで紹介した一連の本の著者である西研竹田青嗣は、分析哲学とはスタイルを異にする、大陸哲学に属する「現象学」を主に研究している人たちです。前回紹介した「論理」系の書籍は流れとしては分析哲学の側に属するので、その考え方のスタイルの違いを味わってみるのも面白いと思います。
ただし、一方のスタイルが好みに近いからといって、もう一方を単純に間違っていると決めつけるのは正しい態度ではありません*1。トンデモ哲学であるかどうかは「ご神託」であるかどうかによるからです。
もう一つ付け加えるなら、先にも述べたように、前回紹介した本と今回紹介している本はいずれもそれぞれに読む“意義”があり、哲学的な態度として「補いあう」ものと言える、ということです。でなければ紹介しませんしね。ご注意。


そして。以下の本を紹介するのは、ある意味“両刃の剣”なのでちょっと躊躇もあるのですが、いい本であるに違いないので……。

哲学の謎 (講談社現代新書)

哲学の謎 (講談社現代新書)

<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない

翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない

興味深い「哲学的問題」のいくつかを、著者と読者が一緒に考えるような体裁で紹介する本、とでも言ったらよいでしょうか。『哲学の謎』と『翔太と猫のインサイトの夏休み』は対話もので、いずれも難しい哲学用語は出てきません。
にも関わらず、これらの本を難しいと感じる人もいることでしょう。というのも、「なぜそんなことを、そんなにねちっこく考える必要があるのか」と思われるかもしれないからです。
そういう問題があるのはわかるし、それに対してどんなふうに考えられるのか議論の筋もフォローできる。でも、どうしてそんな問題をわざわざ考えねばならないのか、その問題意識が共有できない、と。たぶんこのことは、一般的な「哲学者」のイメージをなぞる感じを抱かせるのではないかと思います。日がな一日書斎に閉じこもって、世間的には“どーでもいいこと”を、あーでもないこーでもないと頭をかきむしりつつ考えている、というような。


いきなり話は変わりますが、子どもはしばしば「なぜ犬はワンワンって鳴くの?」「なぜお空は青いの?」といろいろなことに疑問をもつものです*2。そうした一々の疑問に対して、答えられることもあれば、答えられないこともあります。答えられない疑問に対して大人は「そんなことがわかっても何の役にも立たないよ」と言うことがあるでしょうし、実際さまざまなことについてそのように判断(停止)して今まで生きてきたことでしょう。
しかし、ぼくが述べたように、哲学とは「正しいと言えるものの考え方を探求すること」です。だとしたら、それがどんなに些細なことに思えようと、そこに“わからないこと”があるならば、それをどこまでも追求するのもまた哲学者の仕事なのです。永井均が「<子ども>のため」というのは、そういう事態について言っているわけです。世間ズレした<おとな>には哲学はつとまらないよ、と。
このことは、ある意味で先ほどの西研らの著作とは立場を異にしていると言えます。「哲学には“意義”なんかなくていい」、そう言っているからです。ぼくは、基本的には、この考え方に同意しようと思います。それは他の学問領域にも同じように当てはまることだからです。科学者も「世のため人のため」とばかり考えて研究しているわけではないのですから、哲学者ばかりがそのことで責められるのは酷と言うべきでしょう。一方で、世のため人のためになる研究も存在する。どこに力点を置くのか、それは個人の生き方のスタイルによることでしょうし、世のためになるか否かの線引きをすることはこの場合“かえって”世のためにならないのではないかという思いもします。
未読ですが、『子どものための哲学対話』ISBN:406208743Xています。


以上の本について、もう一つ言い添えておかねばならないことがあります。それは、難しい議論をしているにもかかわらず、これらの本にはほとんど「哲学用語」が出てこないということ、そして、きちんと順を追って読みさえすれば、その問題の難しさを素人のぼくたちも理解し共有することができるということです。
このことは、はじめに引いたポパーの言葉の“たしからしさ”を補強する実例と言えるのではないでしょうか。著者自身混乱しているのじゃないかと思われるほどに難解そうな言葉をムヤミに多用して読者をケムにまく類の議論は「トンデモ哲学」を疑ったほうがよいことを示唆している、とぼくは考えます。


次回で最後。もう一歩だけ踏みこんでみたいと思います。

*1:それに何といっても、分析哲学以上に大陸哲学の内容はバラバラですしね。現象学一つとって「大陸哲学は…」なんて風呂敷は広げられません。

*2:と考えられています。ホントかどうか、ぼくは知りません(^^;