マトモな哲学のすすめ(5)

マトモな哲学のためのブックガイド・その3

哲学ブックガイドの最後ということで、少し本格的な入門書をドドッと紹介します。


最初のブックガイドで哲学における「論理」の重要性を説明しました。
論理についての研究はさかのぼれば古代ギリシャアリストテレスにまでいきつきますが、現代では「論理学」と呼ばれるものはほぼ「数学の一分野」と言えます。数学、といわれると敷居が高く思われる人は多いことでしょう。実際、本格的に論理学を研究しようとすれば数学者になる他ありませんが、哲学を学ぶ素養としてであれば、その敷居を低くすることは十分に可能です。

論理学

論理学

論理学をつくる

論理学をつくる

数学の教科書というものはたいてい、定義・定理・証明・補題あるいは系、そして練習問題という流れが無味乾燥に延々つづくのが相場ですが、野矢茂樹のものはその伝統に従う“本格的な”論理学の教科書でありながら、なおかつ野矢・道元・無門という登場人物による「対話もの」でもあるという驚くべき本。イメージとしては数学の教科書の各小単元ごとに3人の実況解説が入っているような感じで、割合としては半々ぐらい。数学自体が直接顔を出すわけではないのでたとえば「因数分解」のような数学的知識そのものは必要ありませんが、記号の操作にくじけない強い心と、「関数」という概念そのものについての理解ぐらいはあったほうがいいように思われます。
一方、野矢本を意識しつつ著わされた戸田山和久の本は、論理学の概念を一から一つずつ自分で手作りしていくというプロセスを踏ませることで、論理学をより身近に自分のものとしてとらえさせることを目指しています。
哲学の素養としては「様相論理」と「可能世界意味論」ぐらいまではカバーしていたほうがよいと思われます。上の二冊はいずれも本格的な教科書としては断然読みやすいうえに論理学の基礎が確実に身につく良書ですが、野矢本には様相論理の説明は出てきませんので、どちらか一冊ということであれば戸田山本をすすめます。その場合でも値段の違いが悩みどころになるかもしれませんが……(^^;


知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)

知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)

哲学が「正しいと言えるものの考え方の探求」である以上、その最終目的は「正しいと言えるものの考え方」すなわち「真理」の解明にあるわけですが、そもそも「真理」って、「正しい知識」って何? ということ自体が一つの“謎”であり、哲学では問われつづけてきました。その分野は「認識論」と呼ばれています。この本は、戸田山和久の他の本同様とてもくだけた文体で書かれた、認識論の入門書です。
そして、真理とか正しい知識とかいった問題に踏みこむとしたら、次の問題への取り組みは避けて通れないでしょう。


科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)

科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)

科学哲学入門―科学の方法・科学の目的 (Sekaishiso seminar)

科学哲学入門―科学の方法・科学の目的 (Sekaishiso seminar)

疑似科学と科学の哲学

疑似科学と科学の哲学

科学的な証明とはどういうものか、なぜそれで「正しい」と言えるのか、科学が証明している法則とはいったい何なのか、そして科学とは何か。それを追求するのが「科学哲学」という分野です。
科学哲学といえば、日本では長らく村上陽一郎の著作が知られてきましたが、彼の考え方は相対主義寄りにすぎているとぼくには思われますし、その主張の一部は明らかにトンデモの範疇でしょう。最近になってようやくマトモな科学哲学書が一般の目に触れるようになり、ぼくとしても嬉しく思っています。
一番とっつきやすいのは、やはり戸田山和久の本でしょう。内井惣七の本は科学哲学の基本的な問題や概念を過不足なく述べた大学教養レベルの教科書。そして、トンデモとのからみでは「疑似科学」と「科学」の区別の問題(=科学の境界設定問題)に徹底して焦点を当てた伊勢田哲治の本が面白いと思います。内容としては上の二冊のさらに先まで踏みこんでますので、科学哲学についての知識がポパー/クーン止まりの人にもおすすめ。


言語哲学―入門から中級まで

言語哲学―入門から中級まで

分析哲学の立場から「言語」現象の解明を目指す、「分析的言語哲学」の入門書。各章ごとにまとめと練習問題、文献案内が示されており、全14章構成なのも大学の教科書として使われることを意図したものと思われます。
哲学は「とは何か」の学問と考える人がいますが、「○○とは何か」というのは「○○」という“ことばの意味”を問うているわけですね。この一事を見ても、「ことば(言語)」について考えることの哲学上の意義がわかると思います。
この本、「論理式」がほとんど出てこないのもけっこう重要なポイントかも。論理式には回りくどい説明を省略する利点がありますが、式の操作をつづけるうちに問題の意味を失念してしまう難点もあります。この本では問題の本質が簡明に説明されているので、論理式を用いていなくても「回りくどい」とか「迂遠」と感じることがありませんでした。ただ、この本では論理式が扱われていなくても、この本の元ネタになっている議論は主に論理学を通して(用いて)表現されてきたものが多いので、論理学の知識があるとより深く意味を汲み出せることでしょう。


現実をみつめる道徳哲学―安楽死からフェミニズムまで

現実をみつめる道徳哲学―安楽死からフェミニズムまで

哲学の実践的応用分野として代表的なものはやはり「倫理学」でしょう。倫理学はまたの名を「道徳哲学」といい、善悪の問題について考える哲学の一大分野。その入門書です。この本も14章構成。
倫理学の対象はよく耳にするものだけでも、医療倫理、生命倫理環境倫理、戦争倫理、技術倫理、企業倫理、職業倫理、メタ倫理、等々ととても幅広く、そのすべてを収めることは難しいです。が、倫理学のエッセンスだけに絞って、基本的な考え方、議論のパターンといったものを押さえることはできます。この本でとりあげられる倫理学の問題はごくオーソドックスなものばかりですが、それぞれの問題に対してどのような学説がありえて、その中で合理的にとりうるみちはいずれなのか、という倫理的思考の「筋道」をよく示してくれます。
この本でもそれぞれの問題についてそれなりの結論を示しはしますが、それに必ずしも同意する必要はありません。なぜなら倫理の問題にはどうしたって「価値観」がからんでくるので、受け入れにくい論点というものを誰しも抱えているはずだからです。Aを善なる行ないと認めるならそれと同型のBをも善行として認めねばならない、という論証に出会ったときに、そもそもAを認められなかったらどうしたらいいのか。こうしたことはとてもやっかいな問題なんですが、それをいかに合理的にときほぐし、そのことでどのように他者とうまく折り合いをつけていくか、それが倫理を学ぶうえでの“キモ”だと思います。


倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦 (哲学教科書シリーズ)

倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦 (哲学教科書シリーズ)

良書の多い産業図書「哲学教科書シリーズ」の一冊で、永井均の手になる倫理学の入門書。『翔太と猫のインサイトの夏休み』の続編として企図されたのか、言語哲学分析哲学)担当の哲学猫・インサイトの代わりに、倫理学担当の哲学猫・アインジヒト(ドイツ語のinsight)が登場します。
時系列的に代表的倫理学説を採りあげ、その講義を主人公の学生が聞く、という対話ものの倫理学教科書の体裁を一応とってはいますが、そこは天邪鬼な永井均のこと、彼一流の“毒”が全編に渡ってまぶされています。具体的には、ある大学教授のごく“常識的”で“道徳的”な倫理学の講義を聞く章がまずあり、それに対してアモラル(非-道徳的)な立場から猫のアインジヒトが疑問を呈するコメントをつける章がつづき、これが交互に繰り返されるというかたちになっています。
アインジヒトの立場はアモラルなので、とりあえずふつうの道徳観はカッコにくくって外に置いておかれるわけです。そのようにして前提を取り払うと、教授の倫理学の講義は「常識的」というより「平凡」、「道徳的」というより「説教くさい」ものとして見えてきます。このアインジヒトにふれて思い浮かんだのが、マンガ『寄生獣ISBN:4063346641「ミギー」。常識的な道徳感情を持った主人公シンイチと、どこまでも合理的で冷静かつ冷徹なミギーのやりとりを見ている思いがしました。
しかし、何でも疑ってかかるのが哲学。常識だからといって哲学の対象にならないわけではありませんし、それどころか根拠不明でも不問に処される「常識」こそ哲学者はより疑ってかからねばならないのです。アインジヒトという存在を生み出すことで、この本はそれ以前のどんな倫理学入門書よりも“哲学的”なものとなったと言えるでしょう。


「神」という謎―宗教哲学入門 (SEKAISHISO SEMINAR)

「神」という謎―宗教哲学入門 (SEKAISHISO SEMINAR)

哲学と混同される最たるものはたぶん「宗教」でしょう。一般的なとらえ(られ)方からすれば、どちらも「一介の凡夫たるわれわれには及びもつかない偉い人による深遠なありがたい教え」と見える点で違いはありません。そして実際、トンデモ哲学は「哲学」を名乗っていながら、実際にはこのような宗教の様子と違わない在り方をしています。ポパーが「大予言者気どり」とか「ご神託」といったことばで非難したのはそのような事態でした。
ぼくは、宗教と哲学とはまったくの対義語であると考えています。その違いは簡単にテストできる。その教義にわからないことがあったとき、そこに超越的存在の名前を持ち出して「彼が(あるいは自分が)こう言っているのだから、それは真理だ」で終わらすのが宗教。そうでないのが哲学である、と。
そういうぼくの考えからすると、「宗教哲学」というジャンルはこの上なく“アヤシゲ”な分野でした。対義語であるところの宗教と哲学が同じことばのうえで同居しているのみならず、実際、哲学の看板をかかげた宗教が大手をふって歩いている分野であったからです*1。しかし、そこに謎があるかぎり、それを追求するのが哲学。だとすれば、「宗教」という現象の根源を問う、健全な「哲学」の営為もありうるはずなのです。
この本はとても珍しい、分析哲学の立場から宗教思想を問う「分析的宗教哲学」の入門書です。過去、哲学者によって解明が試みられた宗教上の哲学的問題には、「神は実在するか」とか「(いるとしたら)なぜ神は万能であるのにこの世に悪が存在するのか」とか、「信仰することを合理的に正当化できるか」等々といったものがありました。そうした問題に対して、どんな答案が提出されてきたのか、そしてどのような学説なら合理的に受け入れられるか、といったことが紹介されています。


哲学といっても幅が広いもので、とても多くの分野を書きもらしていますが、ぼくの主要な関心の対象となっている分野以外についてはほとんど知らず、責任ももてないので紹介できませんでした。たとえばいま簡単に思いつくだけでも、法哲学、政治哲学、歴史哲学、心理学の哲学、生物学の哲学や物理学の哲学、教育哲学や芸術哲学といった領域があります。「スポーツマンシップとは何か」「なぜドーピングはいけないか」「ルールや審判はどうあるべきか」といったことに関わるスポーツ倫理学(体育哲学)という変わり種もあったりして。
また立場としては、現象学や解釈学、記号論構造主義といった大陸系の哲学にほとんど触れずじまいとなってますし、同じ英米系でもプラグマティズムに触れられませんでした*2。どなたか補完していただけると大変ありがたいです(^^)
それでは最後に、「哲学の境界設定」とのからみで一冊提示してこのブックガイドを終わりにしたいと思います。


「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用

「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用

*1:ぼくは何度も書名にある「宗教哲学」というフレーズに騙されました(T^T) ぼくが宗教哲学に特に思い入れがあるのは、ぼくにとってそれがとりわけ切実な問題であったからです。そのへんの話は以前ちょこっとだけ書いてます。

*2:プラグマティストを自称していながらこの体たらく(^^;;;