中島岳志『「リベラル保守」宣言』

しばらくぶりの読書感想文になります。

「政治と宗教の話はしないほうがいい」と言われますが、もとより宗教の話題を出すことの多いこのblogでは今さらの話なので気にせずいかせていただいて。
今回はそのタイトルが気になって手にしたこちら。*1

「リベラル保守」宣言 (新潮文庫)

「リベラル保守」宣言 (新潮文庫)


ぼく自身は、「世の中よくなったらいいなあ」とは思うものの、「よくしていきたい」という積極的な社会改革の意思をもたないごく平凡な小市民です。自分が“右”と“左”のどちらかという自覚もありません。

ただ、政治系の読書傾向は明らかに左寄りではあります。
とはいっても左側を支持しているとも言いがたく… むしろ「またお花畑か」とか「白河の清きに魚の住みかねて」などとイライラしながら読んでいることが多いかもしれません。ぼくは地に足のつかない夢想・空論のたぐいを評価しないプラグマティストですし、あまりに理想化された善なる人間像についていけない小市民ですから。
それでも左側の本を読むのは、その言い分が「それなりにスジが通っている」ことの多い気がしているから。釈然とはしないけど、間違いとも言い切りにくい。*2 そういう意見(異見)に触れるのは、自分にとって勉強になる。それになんだかんだと麗しい「理想」のあるのは基本的にいいことだ。そう思うからです。

右側の本をあまり読まないのは、正にこの裏返し、と考えてもらえばいいと思います。
単に「右側」というと「反左翼」の旗印の下にいろいろ意見の異なる立場がひとくくりにされている観があるので、より正確に「保守系の」と限定したほうがよさそうですが。
あとは、、、 「近頃の若い者は」というフレーズをぼくは毛嫌いしてますが、こういうこと言いたがる人って右側に偏ってますよね。そのへんの事情ももしかしたらあるのかもしれません。

本書は、ふつう反意語とされる「リベラル」と「保守」が同居しているその不思議なタイトルが予感させるように、ぼくの苦手なタイプの「保守系の」本ではありませんでした。
マトモな、という言い方がアレであれば、受け入れやすい、考え方の提示されている本だったと思います。


本書の基本的な考え方はこの部分ですね。

宗教や文化の差異は、真理の差異ではありません。それはあくまでも真理に至る道の多様性であって、言語化できない究極の真理は常に一つです。(後略)
ただし、有限の人間は、無限の真理を完全に掌握することなどできません。我々が知り得るのは、「真理の影」であって、真理そのものではありません。真理は常に地平の向こう側に存在するのです。
人類は、長い歴史の中で、何とか真理の一端をつかもうと、思考と実践を繰り返してきました。その結果、それぞれの土地の風土や環境に応じた複数の真理へのアプローチが形成され、特定の宗教や文化、伝統となって継承されてきました。(pp.24-25)

ここで大きく3つのことが言われています。

  • 「究極の真理」がただ一つ存在する。
  • 人間は完全ではない。
  • 過去の人類の真理に至る努力の積み重ねが文化や伝統となった。

この主張だけ見ると、ぼくの信奉する哲学的立場である「可謬主義(かびゅうしゅぎ)」と、案外近いことを言っている感じがしました。ぼくが「受け入れやすい」と思ったのは、正にこのためです。
プラグマティズムの生みの親であるチャールズ・サンダース・パース反証可能性や批判的合理主義で知られるカール・ポパーといった哲学者が打ち立てた可謬主義の思想をおおざっぱにまとめてみると次のような考え方であり、よく似ていることがわかると思います。

真理は存在するが、認識というもののあり方からして原理的に、人間はそれを「完全なかたち」で手に入れることはできない(必ず幾分か間違う=可謬)。
しかし真理が存在するからこそ「真理の探求」という営為には価値があり、いろんな意見に耳を傾け、培った知識を陶冶することで少しずつ真理に近づいていくことができる。


本書ではこれらの「原則」をいくつかの話題に当てはめることで、保守派として社会問題をどのように考えるべきかが示されているのですが、ここでいくつか簡単にかいつまんでみたいと思います。

リベラル

リベラリズムはそもそも、宗教戦争を繰り返していたヨーロッパ中世末期に宗教的寛容を認める思想として成立しました。そのため、世界観を異にする人々が、違いを越えて同意できる原理こそが、リベラルの名に値するものと考えられてきました。リベラルには本来的に、異なる他者を容認するための社会的ルールや規範、常識の体系が埋め込まれているのです。(p.20)

これはそのとおりだと思います。
そして、だからこそ、「我々日本人」と「それ以外」を分け(さらには日本人を「正しい日本人」と「それ以外」に分け)、前者を称揚し後者を「排除いたします」とする狭量ないわゆる“保守”の考え方と対立するものだと思っていました。

リベラルが「違いを越えて同意できる」ものであるとすれば、それは相対主義ではありえません。相対主義は違いを越えないからです。
ここで先ほどの三原則を振り返ると、立場の違いはその人の背負っている文化・伝統という背景によるものであり、それぞれが通ってきた真理に至る道の違いということで互いに尊重することができます。一方で、同じ一つの「真理」に対する姿勢を共有しているわけだから、対話は可能だ、というわけですね。
著者が保守派はリベラルでありリベラルは保守派であるというようなことを言っているのはそのためです。

あまり具体的でないこんな議論が何の役に立つのか、と思う向きもあるかもしれません。
この原則を肯定する立場のことを「保守」と呼ぶのだとしたら、ここから引き出せるのは「保守だから他者を排除する、ということにはならない。むしろ、保守こそ、他者と対話するための原理と姿勢とをもっている」ということになるでしょうか。

原発

右側は原発推進派、左側は原発反対派。
そういうイメージがありますよね。少なくともぼくは大まかな方向性としてはそう思ってました。

しかし著者は、保守だからこそ脱原発、と言います。
なぜなら、原発をつくる人間が不完全だからです。

保守主義者は理性や知性の限界に謙虚に向き合い、人間の能力に対する過信を諌めます。(後略)
保守派が疑っているのは、設計主義的な合理主義です。一部の人間の合理的な知性によって完成された社会を設計することができるという発想を根源的に疑います。人間が不完全な存在である以上、人間によって構成される社会は永遠に不完全で、人間の作り出すものにも絶対的な限界が存在します。
(中略)
「安全な原発には賛成」という専門家がいますが、そのような前提は人間が人間である以上、成り立ちません。原発は事故が起こることを前提に考えなければなりません。そのときに、私はリスクの高すぎる原発には批判的にならざるを得ません。(pp.98-101)

ぼく自身はポパーの批判的合理主義を受け入れており、知識は時とともに深化し進歩していくというイメージをもっています。
ただ、それがどんな場合でも正しく、善なのか、と言われると、考え込まざるをえません。科学の進歩が必ずしもいいことづくめでないことは、核兵器の存在や「長生き地獄」*3を考えてみれば明らかです。

また、ぼくは可謬主義者なので、人間のつくったものには何かしら必ず問題があるということを前提にすべきだ、という意見に全面的に賛成します。
このとき、「間違うからダメだ」と言いたいわけではないということにご注意。間違うからこそ、「間違ったとしても取り返しがきく」ようになっているべきだ、と思っているのです。
その点について著者も同じ考えのように見えます。

しかし、このような認識に立つと、ありとあらゆる科学技術に対する不信が生まれてきます。この不信にのみ立脚すると、すべての技術は停止され、世界は滞ります。
重要なのは、事故や故障が起こることを前提に、その利便性とリスクを天秤にかけて利用する英知とバランス感覚です。(p.100)

「利便性とリスクを天秤にかけ」たときリスクが大きすぎると著者は判断した。
原発がダメだというのは要するに、そういうことです。

橋下徹

この人は典型的な「ポピュリスト」であり、右や左の内部でも評価が分かれていると思われます。

著者は彼のものの考え方に反対のようです。
その理由は、「それまでのやり方」をないがしろにし、「俺が天下をとる」と言わんばかりのその態度のためです。

彼の考え方は保守的どころか、反保守的であると言わざるを得ない側面がほとんどであることに気づきます。
彼はそもそも、社会が歴史的に蓄積してきた経験知や道徳、慣習などにまったく価値を置いていません。むしろ、そのような価値は「危険」であり、無意味であるとさえ公言しています。彼は弁護士だったためか、伝統や慣習よりも「法というルール」を絶対視する傾向があります。そして「違法でなければすべて容認されるべき」という価値観を打ち出しています。(pp.118-119)

このような考え方は、急進的な設計主義と、伝統的価値観の否定に直結します。(p.122)

その証拠のひとつとして述べられたのが、以下の「福男選び」に関する話です。

「福男選び」というのは、毎年一月一○日、午前六時の開門とともに本殿まで人々が走り、いちばん先に到着した者が「一番福」となる伝統行事のことです。二○○四年の新年、前年転倒して「福男」を逃した人物が、仲間を集めて他の走者の進路を妨害し、「福男」を獲得したことで議論が起こり、結局、この人物は「福男」を返上しました。(p.119)

しかし橋下氏はこの人物を称揚します。
以下はその著書『まっとう勝負!』からの引用ですが、本書からの孫引き。ページ番号も本書のものです。

現在の世界は激烈な競争社会。なんとなくの暗黙のルールに縛られて自己規制していたらアッという間に取り残される。明確なルールのみが行動の基準であって、明確なルールによる規制がない限りは何をやっても構わないんだ。(p.119)

「こんな卑怯なことは許せない」みたいなことをいいたがる人は多いけれど、卑怯かどうかは個人の道徳や倫理であって、他人との関係は明確なルールのみで規律すべきなんだよ。
これだけ価値観が多様化した社会で道徳や倫理を持ち出したって、おのおのが持っている道徳観、倫理観が違うんだから意味がない。それに道徳や倫理を基礎とする暗黙のルールというものは危険だよ。(p.120)


ここでやや遠回りな脱線になりますが、ぼく自身の道徳観、「善悪」についての考え方を簡単に説明します。

「真善美」と言われますが、このうち「真」つまり「真理」は永久かつ客観的に存在すると思っており、一方「善」と「美」は一時的で、客観的に「ある」と言える側面と主観的な側面の両方があるもの、と考えています。
善と美はやはりまずもって「心」の問題であり、人(々)があるものごとを「好ましい」と感じるか「好ましくない」と感じるかという感性を集約し集積したものだと思っているからです。

このような感性は、学習によって後天的に受け入れたものもありますが、基本的には「生き残るのに有利か不利か」という生物進化の条件を基盤としています。
たとえば青い見た目の料理に食欲が湧かない(「好ましくない」と感じる)のは、ぼくらのご先祖がそのような価値観の持ち主だったことで、カビの生えた食物を食べずに済んだからであり、その価値観が刻印された遺伝子をぼくらが受け継いでいるためです。
善や美が「客観的にある」と言える部分があるのは、ぼくらが「ヒト」という同じ生物種であり、同じような環境に適応して生き残ってきたことに拠ります。*4 逆に言えば、別の生物、もっと言えば別の星からきた生物は、その違いの程度に応じて善や美の基準が異なっていると思われます。

その一方で「主観的」、個別的なものである部分もあります。人は一人ひとり遺伝子も脳のつくりも生育歴も異なっており、それなりにバラバラの個性をもっているからです。
「蓼食う虫も好きずき」と言いますが、それこそ極端な話「サイコパス」などは、脳のつくり・心のあり方が“ぼくら”と異なることで善や美の異なる基準をもつに至った、“異星人”の実例だと思います。

「助け合い」を基本的に是とする感覚をぼくらが身につけているのは、そのほうが生き残りやすかったからです。
ここで詳しくは説明しませんが、「一期一会」の関係にある人はそれこそ「旅の恥はかきすて」で、裏切ったり騙したりしたほうが自分の得になり、その一方、長い間ともに暮らす人どうしは協力したほうが得になります。*5
大戦前後の日本人は、日頃ごく身近の人々にはとても親切にしていても、ひとたび見知らぬ人ばかりの電車の車内や公園へ花見に出ると、電車の窓を割ったり桜の枝を折ったりと傍若無人の暴挙に出ることしばしばで新聞にもよく採りあげられていたようですが*6、それにはこういう背景もあったろうと思います。

現代になると、脳のつくり・心のあり方は過去のご先祖*7 とあまり変わっていないのに、一方で暮らす環境は様変わりしました。
この心と世のギャップによって一時的な(過渡的な?)“不適応”が生じるのが、いわゆる「現代の病」と呼ばれるものであり、そのひとつとして「孤立」「孤独」の問題があると思っています。

進学や就職のために上京し、都内のアパートで一人暮らしを始める。「隣は何をする人ぞ」という感じですぐ近くに暮らしているのに隣人の顔も見たことがない。
よく知らない間柄では、不安も不信も(ひいては敵意も)募りやすいですし、先に述べたように「裏切ったり騙したり」しやすくなります。
先日、こんな話題もありました。

この手紙を受け取った方のショックはよく理解できるものです。
ですが、ここにまとめられた意見の中にもあるように、手紙を出した人と受け取った人が日頃からの「顔見知り」であったなら、こういうことにはなっていなかったようにも思われるのです。
そのような問題に関して、理想的なモデルケースがありました。

「子どもは夜泣きするものなのだから受け入れてくれ」
「こんなに大きな泣き声がするのは児童虐待かも。通報通報」
孤立した個人たちが、顔の見えない相手を前に“一般的なルール”を押しつけあいながら、自分の中で「イラつく相手の想像図」を勝手に描いて敵意をこじらせるぐらいなら、コミュニケーションをとってみるのはどうでしょうか。
コミュニケーションをとれば、そこにはコミュニティーが生まれ、ぼくらの脳に刻まれた「譲り合い」「助け合い」の脳内回路が活動を始めるはずなのです。

現代社会がどのようなものであったとしても、それに向き合うぼくらの心のつくりは大昔から大して変わってはいません。
今の社会がこうなっちゃってるんだから仕方ないだろ、お前の態度のほうを何とかしろよ、という意見は、「24時間戦えますか」と同種の“暴論”だと思います。
「激烈な競争社会」とは言いますが、ぼくらは競争せんがために生きているわけではありません。むしろ、生きるためにしぶしぶ競争に参加せざるをえないでいる人が大半なのではないでしょうか。

「小さな個人」にくらべて「大きな社会」のほうが、軌道修正が圧倒的に難しいのは動かしようのない事実です。
だから個人をどうにかしよう、という安直な対応ではなく、社会のひずみをできる限り小さく落ち着かせることのできる「うまいやり方」を探っていくことが必要なのだと思います。



本書を読んで、著者の意見は「それなりにスジが通っている」と思いますし、その回答には「なるほど」と思えることがいくつもありました。
保守にもマトモな考え方はあるものだ、と考え直させられるきっかけをいただいた、と思います。

ただ、「伝統・文化バンザイ」という主張はいまだに呑み込めないのですが…
伝統・文化というものはぼくの考え方からすると「ミーム*8 の一種です。なのでそこには、それを保有する社会集団を生き残らせる“暗黙知”が含まれており、その点では(そこまでの話の範囲では)著者と同じ意見をもっている、のかもしれません。
しかしぼくは、「進化」や「適応」というものを、必ずしも「よい」ものだと思っていません。
カマキリのメスは交尾のあとでオスを食い殺します。他のオスに寝取られないよう、性器がノコギリ型になっていて交尾のあとはメスの性器が使い物にならなくなる虫の話を読んだのは『乱交の生物学』asin:4783502293だったかと思います。これらの事例を知っていると、ヒトのオスとメスの仲がいいのは正直「たまたま」だと感じます。
本家の遺伝子ですらこうなのです。ミームだってその例外というわけではありません。「花嫁持参金殺人」*9や「名誉殺人」*10のようなものは、その好例なのではないでしょうか。
そして、こういうものを「よくない」と判断する根拠は、当該の「伝統・文化」からは出てきようがありません。

最後に、より理論的でバランスのとれた内容の本を紹介して、この感想文を〆ようと思います。

精神論ぬきの保守主義 (新潮選書)

精神論ぬきの保守主義 (新潮選書)

いまこそロールズに学べ  「正義」とはなにか?

いまこそロールズに学べ 「正義」とはなにか?


あ、あと、最近読んでよかった本も。ここまでの話と全然関係ありませんが(^^;

[asin:4260016733:detail]

*1:リンク先は文庫版ですが、自分が読んだのは単行本のほうなので、引用文のページ番号も単行本のものになります。ご注意ください。

*2:左側の議論を間違いと言いにくい原因のひとつには、道義上否定しづらい「正論」を大上段に振りかざしていることが多いから、という側面はたしかにあります。
「話せばわかる」と軍備の問題を片付けたがる割に、こういうときばかり「問答無用」で相手を袈裟がけに斬りつけるその姿勢はいかがなものか、と思いますが…

*3:松原惇子『長生き地獄』asin:4797391448

*4:河野哲也『善悪は実在するか アフォーダンス倫理学asin:4062583992

*5:囚人のジレンマ - Wikipedia

*6:大倉幸宏『「昔はよかった」と言うけれど』asin:4794809549、『「衣食足りて礼節を知る」は誤りか』asin:4794810423山岸俊男『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』asin:4797671726

*7:ここで「ご先祖」と言っているのは、その少し前に出てきた「カビの生えた食物を食べない」人々と同じです。つまり、一般に「ご先祖」ということばで想起する「○○家代々」のような人々よりもずっと大昔、有史以前に存在した人々を想定しています。
なぜこのような注釈をつけるのかといえば、ヒトに備わる暗黙知は、著者が多用する「伝統・文化」という有史以後を想起させるスパンより、はるかに長い射程をもつということに注意を促したいからです。

*8:ミーム - Wikipedia

*9:ダヘーズ - Wikipedia

*10:名誉の殺人 - Wikipedia