栃内新『進化から見た病気』

2016/12/16に一度投稿した記事なのですが、誤字を見つけたので修正して保存したところ、Linuxを使っているせいでか、なぜか記事が全面的に文字化けしてしまいまして・・・ Googleのキャッシュからデータをサルベージ、記事を復旧しての再投稿となります。
季節外れな年末のあいさつがあるのはそういう経緯です。あしからずご了承ください。


単体の読書感想文記事はひさびさで、見返したところ2014年4月以来2年半ぶりのようですΣ(゚Д゚ ;
とても興味深く面白い内容の良書ですが、と同時に、その内容に触発されて以前から思ったり考えたりしていた「言いたかったこと」が次から次に溢れてきたので、読書感想文にかこつけてまとめてみることにしました。
「世間のジョーシキ」にまっこう歯向かうような意見もあるので読んでドキッとするかもしれませんが、積極的に反対しているわけではなく、納得がいかないので異論を叩き台として提示しているとお考えください。個人blogの放言として生暖かい目で見ていただければ・・・(^^;


というわけで、今回紹介するのはこちら。


進化から見た病気―「ダーウィン医学」のすすめ (ブルーバックス)

進化から見た病気―「ダーウィン医学」のすすめ (ブルーバックス)


数学や哲学といった、あまり「この世」と直接関わらない分野が関心の主な宛先だったぼくが「進化論」関連を追いかけるようになったのは、政治学者がゲーム理論を駆使して社会のしくみを説明したロバート・アクセルロッド『つきあい方の科学』asin:4623029239 を読んだのがきっかけだったように思います。
この中に進化論をゲーム理論に応用した「進化ゲーム理論」というものが出てきたからですが、以来進化論の応用に関する本をよく読むようになりました。


そんな応用分野の一つに「進化心理学」があります。以下の記事の冒頭で紹介しているので具体的な話はそちらにゆずるとして… て、これも2年半前の記事か(ーー;

他にこちらもどうぞ。この記事の一番下のあたり。

他の心理学分野で発見された人間心理の法則や傾向について、「それが存在するのにはこれこれの進化論的理由がある」という説明をするのが、進化心理学の主なしごとです。
それを踏まえるなら、本書で紹介されている「進化医学」あるいは「ダーウィン医学」と呼ばれているものは、「進化心理学の医学版」と言うことができます。

本書で扱う「ダーウィン医学」あるいは「進化医学」と呼ばれる学問は、ヒトという生物にとって病気とはどういうものなのかを、ヒトと病原生物の両者の視点を基礎に進化生物学・生態学的に読み解き、病気をよりよく理解し、病気とともに進化してきたヒトという生物を理解しようとする新しい学問分野である。(p.28)

以後の書きものは本書を読みながら思ったあれこれを、あえてセンセーショナルな見出しや言い回しを用いつつまとめたものです。
それではどうぞ。

癌、健康強迫、そして「死因」選択の自由

本書の中で、「がん(癌)」がどんな病気 であるか、またその原因について述べられています。

日本では一九八一年から脳卒中に代わって死亡率の第一位になっているがんだが、その発生部位の割合は年ごとに変化している。最近は胃がんや子宮がんが減ってきて、肺がんや大腸がん、乳がんが増加して欧米における出現頻度と似た傾向を示すようになっている。
(中略)
ここまで見てきたように、伝統的な日本の食事とされている塩分の多い食事をすると胃がんが多くなり、カロリーの高い脂肪や肉類を多く含んだ欧米型の食事をするようになると大腸がんや前立腺がんが多くなるということは間違いなさそうだ。(後略)
では、どうすればこれらのがんから身を守ることができるのか。(中略)塩や動物性脂肪を減らし、食物繊維の多い雑穀などを多く摂る食事が、胃がんや大腸がんを予防してくれるといえるだろう。(pp.101-103)

「日本人の死因の一位は癌で、これこれを心がければその癌に罹るリスクを減らせますよ」
・・・という話は、最近炎上した某サイトに限らずほうぼうで見聞きする話です。
ぼくは前々から、その手のお話の展開の仕方に“ひっかかり”を覚えていました。


たとえば現在の死因第一位が「Xがん」だったとします。→生活習慣の改善により、これを避けられるようになりました。→死因第一位が「Yがん」に変わりました。→生活習慣の改善により(以下略
これは正にこの引用箇所の冒頭にも出ている話ではありますが。


このループの、いったい何がうれしいのでしょうか。
日本人の死因第一位が「がん」なのは、それ以外の理由で死なないからじゃないかと思うのですが。
人間は「死なない」ことができないので(ですよね?)、ある難病に罹らなくなったということは、別の難病に罹って死ぬことを意味するに過ぎません。
「別の癌で死ぬために」涙ぐましい生活習慣上の努力を払うことにどんな意味があるのでしょうか。
それは、「健康である」ことを病的に追い求める“健康に気をつかうことがやめられない”強迫観念(健康強迫)の一つの現れに過ぎないのではないか。ぼくにはそう思われてなりません。


それとも、これはある種の「逆転の発想」を求められている、と考えるべきなのでしょうか。


ここに引用した箇所で、塩分をとると胃がんになり、カロリーをとると大腸がんになる、とあります。
結局何がしかの病気(がん?)で死ぬことが避けられない以上、「胃がんで死にたければ」塩分を、「大腸がんで死にたければ」カロリーをとればよい。逆手に取れば、そういうことを言っているようにも読めますよね。
医学の進歩により各種死病の病因が次々解明されていくことで、最終的に残るのは「こういう生活をしたらこの病気で死にます」というリストだったとしたときに、人は、自らの死因を自覚的に選びとる「死因選択の自由」を手に入れることができる、と、そうポジティブ(?)に受けとればよいのでしょうか。


何が言いたいかというと、「○○という病気になりたくなければ□□という節制をしなさい」という言説全般に対して、「だから何?」ということなんですが(^^;
胃がんになるから塩分は控えろ、大腸がんになるからカロリーは控えろ、XがんになるからAは控えろ、 YがんになるからBは控えろ、・・・ と、この種の言説の運動はとどまるところを知らず、がんじがらめの不自由な生活にしか行き着きません。
その果てに得られる結果が「どうあがいても死亡」だというのはあんまりではないでしょうか。
明らかな肥満とかでもないふつうの人々に対するそれは、よけいなおせっかい以上の何ものでもない場合がほとんどだと思います。

「長寿」は寿ぐべきことなのか

根本的な問題は、「どうせいつかは死ぬ」ということなのです。
じゃあいつ死ぬか?い(下略

ヒトが生殖年齢を過ぎて老化してもなお生きることの意味は、「おばあさん仮説」で説明が可能だとしても、なぜ老化しなければならないかということの説明は、まだついていない。おばあさんの存在が有意義ならば、全員が老化などせずに長生きして孫を育てるほうが有利だということになる。しかし、おそらくそれではダメなのだ。
(中略)
もし、その先年齢が上がっても死亡率が増加せず、生殖活動も低下しないとすると、子供はどんどん生まれ続けるので、ヒトの数は指数的に増加し続けることになる。そうなると、個体数の増加とともに地球上の資源(主に食と住)はたちまちのうちに枯渇してしまう。その結果、生まれたばかりの個体と親の世代、さらに祖父母の世代が同じ食物や住みかをめぐって争うような状況が生まれるかもしれない。
(中略)
つまり、親による子育てと次世代への資源の譲渡を両立させるために、いっせいにではなく時間をかけた世代交代を行うためのしくみとして老化(と死亡)があると考えると、うまく説明がつく。(pp.187-188)

だとすれば、「長寿」は何ら良きことではないし、「高齢化社会」はヒトの生き物としての自然なあり方を無視した文明の病そのものだ、ということになりはしませんか。
少なくとも「バイオロジカル・コレクトネス」的に。


ホモ・サピエンス・サピエンスという種が発生して以来の過去何十万年の「人類の歴史」を見返してみたときに、ほぼすべての時期において我々のご先祖様の寿命は「人間五十年」だったわけです。そのご先祖様が現代人を見たら「長生きしやがって」と僻むことだってあるんじゃないでしょうか。
「いつまでも長生きする」ことは、この観点からハッキリ言ってしまえば、“贅沢”であり“わがまま”です。
後期高齢者が「われわれの医療を充実させるため、勤労世代からもっと税金を取り立てて財源を確保しろ!」と声高に主張すれば、織田信長が「敵は本能寺!」とドロップキックを食らわせるかもしれません(^^;
こうしたことに関して「人生の先輩を敬え」という言い方をたまに見聞きしますが、尊重されるべきは「目の前の高齢者」ばかりで、なぜもっと先輩であるはずのご先祖様がどうでもよいのかは不明のままです。


ここで先の「癌」の話に戻ってみると。
「人間五十年」を前提するなら五十過ぎたらいつ死んでもおかしくないことになるわけで、その後のいくつにどんな原因で死のうが既にして「大往生」であり大した問題じゃないのじゃないか。そんな思いもしています。

「成人」の観念と生物学、あるいは「文明病」としての青少年育成条例

ここまでのものの書きようとこの見出しから、何を言わんとしているかは予想がつくと思いますが。

最近はどんどん遅くなっているが、ヒトの生殖年齢は一五〜ニ五歳くらいがもっとも活発だ(った)と考えられる。(p.188)

ムシは「幼虫」として誕生し、「成虫」になって子を残します。
イヌも「子犬」として生まれ、「成犬」になって子を残します。
これら動物が「成体」になったとみなされるのは、「子どもをつくる」ことができるようになることを条件としています。
それでは、ヒトはどうでしょうか。


中学の保健体育の授業で教わるように、ヒトが子どもをつくることができるようになるのは「第二次性徴」を経た時点です。
それは遅くても「13歳」ごろと言われています。
だとしたら、13歳を過ぎたヒトは「成人」として扱われるべきではないのでしょうか?


このからみで少し脱線。
「厨ニ」ということばがありますが、14歳ごろに急に「人が変わった」ようになるのは、その時点が“子供”から“成人”に変わる境目なのだから、当然と言えば当然の話なのです。
また、ナボコフ原著asin:4102105026の「ロリータ」は12歳なので、JS嗜好はロリコンの謗りを免れないかもしれませんが、JC嗜好はその由来からしても生物学的にもロリコンとは呼べません。


閑話休題
民俗学者赤松啓介の著作など見ていただけるとわかりますが(たとえば『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』asin:4480088644)、昔の日本では「元服」や「褌祝(フンドシイワイ)」「鉄漿祝(カネイワイ)」といった一種の成人式がそれぐらいの歳に行われ、実際結婚して子どもをつくっていたわけです。
ところがなぜか現代では“犯罪扱い”を受けてしまいます。「青少年育成条例」しかり、女性の結婚年齢を18歳に引き上げる法案しかり。
少なくともこれらが「生物学的に正しい」あり方でないのは間違いありませんし、日本の過去の歴史に照らしてもそうです。
こうした法律や条例の存在は、国や地方自治体が、人間の自然なあり方、自然権を侵害しているということになりはしませんか。言うまでもなく「自然権」は「人権」を含んでいるので、それは人権侵害以外の何ものでもないわけですが。
そういう意味では、生物学の視点からその国で認められている「自然権」の内容をチェックする「進化法学」とでも呼ぶべきものの誕生を、ぼくは期待しているのです。


第二次性徴期を経たヒトに対するコドモ扱い。ぼくにはこれが、いったいどういう理屈で正当化できるのか、いまいちよくわかっていません。*1 「まだ早い」と、この年頃の人間をオトナ扱いすることの、何をそんなに恐れることがあるのか。
むしろ、本来オトナであるはずの人間をいつまでもコドモ扱いすることが、さまざまな“軋み” “歪み”の生じる原因となっていることだってあるかもしれない。
「立場が人を作る」とも言われます。大人扱いすることで成人としての自覚の芽生えることがあるかもしれませんし、「保護」の名のもとに閉じ込めておくより、一つでもできることが増えていくようサポートするほうが望ましくないでしょうか?


ここで問題にしている「パターナリズム」について、PTA的感情論を超えた、冷静で明確な学的根拠を備えた擁護論を読んでみたいと思っています。

現代人は「進化」しうるか

だいぶと大昔の話になります。
ビートたけしの何かの番組で「進化」をテーマにした回を見ていました。番組の最後に、このまま人が進化していくと顔はこのように変わっていく、と「予測される未来人の顔」が出てきたのですが、両手をつないだあの宇宙人(グレイ)のようなその造形に「ねーよwww」と吹いてしまいました(^^;
それはそれとして、この先、現代人はそもそも進化することがあるのでしょうか。そして、するとしたらどんなふうに、というのは興味の尽きない話題かと思います。

しかし、ヒトにおいても意外に速いスピードで進化が起こった例もある。乳糖の分解である。ほかの哺乳動物と同じように、ヒトでも乳児は母乳に含まれる乳糖を分解できるが、一◯代になると乳糖を作る遺伝子が働かなくなり乳糖を分解できなくなる結果、日本人には牛乳を飲むとお腹の調子が悪くなる大人が多い。
しかし、牧畜の開始とともに大人も牛乳を飲む習慣を持つようになった欧米人では、大人でも乳糖を分解できる。これは、もともとは大人になると働きを止める遺伝子が乳児期を過ぎても働くように変化(進化)したためと考えられている。牧畜が開始されたのは一万年くらい前のことなので、大人が乳糖を分解できるように進化するのに要した時間はほんの数千年ということになる。
日本人では乳糖を分解できない大人が多いのは、多くの日本人が牛乳を飲むようになってからまだ一◯◯年も経っていないからであり、この先も牛乳を飲み続ける生活を続けていれば、欧米人と同じようにいずれは大人も乳糖を分解する能力を持つように進化する可能性もある。進化の力を信じるならば、そしてヒトの文明がヒトの進化を妨げないならば、ほかのさまざまなケースにおいてもそれを克服する進化が期待できるのかもしれない。(pp.114-115、強調引用者)

このくだりは、読んでて「おい」とツッコミを入れたくなりました。特にこの下線部。


ダーウィンの教えに立ち返るまでもなく、進化が起きるのは「淘汰」があるからです。


子が親から遺伝子を受け継いだ際、親の遺伝子の組合せパターンにプラスして何らかの理由で一部の遺伝子が変わってしまいます(変異)。そのような遺伝子をもって誕生し成長した子が親になって次代に遺伝子をのこせるかどうかは、「生き残れるか(自然淘汰)」と「異性に出会えるか(性淘汰)」によって決まるわけです。
「変化(進化)」と引用箇所で呼ばれているものはこのような変異のことを指していますが、このような変異がひとびとの間に広まっていくのは、単にその遺伝子をもった個体が自然淘汰・性淘汰について他の個体より優位性をもち、子孫を増やしていけた結果。
「進化の力を信じるならば」とことばをきれいに取り繕ってはいますが、ミもフタもない話をすれば、個体群がある特徴を備えているのは、その特徴を備えていなかった先祖が子孫を残せなかったためです。実態はそういうことでしかありません。
その基本を踏まえてこの引用箇所を眺めてみれば、いろいろとおかしなことを言っているのに気がつくことでしょう。


これだけ農業や医学の発達した現代において、餓死や病死といった「自然淘汰」の影響を受ける可能性は、少なくとも過去ほどにはありません。子供をつくることのできる年齢(第二次性徴以後)まで生き延びることができない人は、現代日本には割合的にごくわずかしかいません。(せっかく子供をつくれる年齢になれたのに、それを国に禁じられて「自然(?)淘汰」される例もあるでしょうが…)
乳糖分解の話に戻ると、欧米人の経験した過去一万年間はそれこそ自然淘汰の嵐が吹き荒れ、乳糖分解のできない人々が「淘汰」された結果として現在のようになった可能性は十分考えられますが、現代日本で同じようなことが起きるかと言えば、仮にこれから一万年経ったとしてもありえそうにないのじゃないでしょうか。
また、ぼくがビートたけしの「グレイ顔」をありえないと思ったのも、単に自分の感覚で「気色悪い」と思ったからだけではありません。そのように顔の形が変わっていくということは、進化論を踏まえるなら、そのような顔の形をもった人々(だけ)が子孫を残せた結果に他なりません。それはちょっと考えにくいと思います。

出生前診断によって、あらかじめ重篤な先天性の疾患が予想されるときには、胎児および母親を含めた家族の福祉のために、(ママ)まないという選択が行われることには同情的意見が多い。しかし、出生前診断をするということは、今までならば自然選択によって行われていたことにヒトが介入し、人為選択となりうることに注意しなければならない。
自然選択によって起こったことは地球における生物の進化である。一方、人為選択によって作られたものにキャベツやイヌ・ネコの品種がある。(後略)
(中略)
今日に至るまで三八億年の間、自然選択にのみ任されてきた遺伝子の変化を、我々の技術で人為変化・人為選択できるようになったときに、何をしてよいのか、何をすべきでないのか、そうしたことをしっかりと把握する前に行動してしまうことは取り返しのつかない結果を生む恐れがある。先端医療の持つインパクトは、何億年もかけて受け継がれてきた地球における進化の連鎖を、ヒトが断ち切ってしまうことを可能とするくらい大きなものだということを認識しておく必要があるだろう。(pp.170-171)

ここで著者は、代理母出生前診断、デザイナーベビーといった、生命倫理学では定番のテーマに踏み込んでいます。このまま行くと優生思想やら社会生物学やらといった大きな話になるので深入りはしません。
なぜ自然選択はよくて人為選択はよくないのか、この文章からではいまいち判然としませんが、一点、ここに漂っているのは「神のみわざ」への挑戦に反感を抱くアメリカのキリスト教原理主義に似た価値観のにおいです。進化論の人なのに…*2


このくだりの議論がどうしようもなくナイーブと見えるのは、ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』asin:4794218788で述べられたような人類内外の征服の歴史、性選択(性淘汰)の存在や、ぼくのような素人でも気づいた次のようなことが、考慮の外になっているように見えるからです。

これは今から10年ほど前に書いた記事ですが、「なぜ子供はかわいいのか」、進化論の観点で考えてみたものとなっています。
ここまでの議論にお付き合いいただいた方は、そこに何が書いてあるか、予想がついたのではないでしょうか。
人間に対する人為選択が、現生人類の過去何十万年の歴史の中で行われてこなかったなんて、どうして言えるのでしょう。


ここで「現代人は進化することがあるのか」という本題に戻り、自分の想定を整理します。

  • まずは「自然淘汰」について。大多数の人が生き延びることができる昨今、「生存に有利」な遺伝子が特別に高い適応度を獲得するという所謂「自然淘汰」はほぼ機能しなくなるはずです。逆に言えば、多少「生存に不利」な遺伝子でも保存されるので、種内の遺伝子の“バラツキ”が過去よりも大きくなることだろうとは思われます。
  • 次に「性淘汰」について。この記事で「高齢化」の話題を出しましたが、それとよくセットにして語られる「少子化」。これって実は性淘汰ですよね。だから、性淘汰による進化はありえると思われます。というか、ある特定の性質が高い適応度を獲得する契機は、現代人において性淘汰以外に無いのではないでしょうか。戦争や天変地異は別として。

とは言え、それが何を結果することになるのかは、よくわからないのですが。

おわりに

ここまでの話で誤解を与えたかもしれないので、最後に一つ。


「人間は自然の摂理に従って、動物らしく生きるべきだ」などと、ぼくは微塵も思っていません。
ただ、人間も自然界に存在する動物の一員なので、動物として「あたりまえ」であるはずのことを、人間については当てはまらないかのように言ったりふるまったりするのはごまかしだ、とは思っています。
「長寿」の話に戻って言えば、「長生きしたい」という思いが贅沢でない・わがままでない・当然の権利だというのはごまかしだ、そこで言いたいのはそれだけです。
人間は他の動物同様に「利己的」な存在なので、その利己性の発露としてそうした要望が出てくることも当然あることでしょう。この社会にその贅沢を受け入れるに足る余裕があるなら実現したらいい。そうでないなら、他のわがままと折り合いをつける必要があるよね。そういうことです。


エデンの園」、ルソーの「自然人」、「原始共産制」のロマンはぼくにはありません。
動物であることは、「理想の目標」では当然ありえず、「現実の出発点」として捉えられるべきです。それはぼくたちを縛る制約として現に機能しています。
その制約に対してなんの対案も用意することなく、観念で乗り越えようとするのは単なる妄想ですし、裸で突貫するのは単なる無謀です。


これは倫理学ピーター・シンガーの「ダーウィン主義左翼」のスローガン(『現実的な左翼に進化する』asin:4105423053参照)とも関わりますが、思っていることを標語にしてまとめてみると・・・

  • 物理学的に不可能な科学技術の実現を求めないでください。
  • 経済学的に不可能な政策目標の実現を求めないでください。
  • 生物学的に不可能な道徳倫理の実現を求めないでください。

それは、絶対に成功することがありません。


モットーがこんな感じに「消極的」になるのも、10年前に書いた下記の記事から変わってませんね。ぼくもいいかげん“進化”しないとな…(ーー;


*1:「どうしてコドモ扱いするようになったのか」についてはフィリップ・アリエスの古典『<子供>の誕生』asin:4622018322をはじめいろいろと論考はありますが。

*2:キリスト教原理主義者にとっては、人間は神に似せて神がつくった(創造した)ものなので、進化論は当然目の敵にされています。ナイルズ・エルドリッジ『進化論裁判』asin:4892031933、鵜浦裕『進化論を拒む人々』asin:4326652195、など。イギリス国教会は進化論を認めたようですが。