きたみりゅうじ『新卒はツラいよ!』

新卒はツラいよ!

新卒はツラいよ!

平成不況のまっただ中に求職することになり、中小IT企業に新卒未経験で就職、そして退職するまで。著者の七転八倒の3年間を描いた、ノンフィクションなマンガエッセイです。高校のころにこうしたものに触れていたなら、ぼくももう少しはマトモな人生が送れただろうにな……と思いました。
もう一つ、「世の中の仕組み」について考えさせられたサイトを。成人ゲームをつくる仕事をしていた人の話です。やはり就職活動から就職、いろいろあって、そして退職までの話がつづられています。零細メーカーならどこにでもありうる話、かも。

これは前から思ってたことなんですけど、「ゆとり教育」っていったい何なんですかね。
いや、ぼくはよく耳にする「ゆとり教育の弊害」を言いたいわけじゃないんですよ? だって、弊害があるのかないのか、ぼくはよく知らないしその判断もつかないんですから。ただ疑問に思うのは、学校を出た後の長い人生に「ゆとり」なんかまるでないのに、学校時代だけゆとりを保証したって何か意味があるんですか?と思うわけです。ぼくには意味がわからないんですよ、「ゆとり就労」ひいては「ゆとり人生」を目指さない「ゆとり教育」の存在が。これもいわゆる“タテ割り行政”の弊害ってやつなんでしょうか。
学生時代は視野が狭いから、尾崎某さんのようについつい「早く卒業したい」なんて思いがちですが、いざ学校を卒業して仕事を始めてみると、多くの人にとって学生時代のほうが気楽でよかったと思われることは多々あるんじゃないでしょうか。「試験が大変だ〜」なんていうけど、社会人になったら毎週が試験期間みたいなもんですよ。
グローバリズム下に赤の女王がかけずり回っているいまのご時世に、教育に必要なことがあるとすれば、それは「ゆとり教育」なんかではなくて、「早期社会(人)教育」なのではないかとぼくは思います。高校、いや中学の時点で、ちゃんとしたキャリアコンサルテーションを始めるべきなのではないか。そして、「世の中」を、その“世知辛さ”というものをきちんと伝えていく必要があるはずだ、と。


ちなみに、「赤の女王」というのはこういう話です。(ルイス=キャロル『鏡の国のアリス講談社文庫版ISBN:4061843001、pp.50-51)

赤の女王さまは、アリスを一本の木によりかからせてから、やさしく「さあ、すこし休んでもよろしい」といいました。
アリスはあたりを見まわしながら、びっくりして「あら、わたしたち、ずっとこの木の下にいたらしいわ! なにもかも、まえとおんなじですもの!」といいました。
「もちろん、そうよ。どうあってほしいというのかね?」
「わたしたちの国では」アリスは、まだいくらかあえぎながらいいました。「さっき、わたしたちが走ってきたように長いあいだどんどん走れば、どこかほかの場所へいきつくんですが」
「のろまな国ね。この国では、おなじ場所にとどまっているためには、全速力で走らなければいけないんだよ。どこかほかの場所へいこうと思ったら、すくなくともその二倍の速さで走らなければならないんだ」

もともとこの話が注目されたのは進化論の関係らしいです。つまり、すべての種(遺伝子と考えるべきでしょうか)が適応度の上昇を目指して競争しているので、ボヤボヤしていると「適応」が相対的な現象である以上適応度の減少を招く(→淘汰される)。そのため、ある生物種が同じ生物学的地位に留まるためだけでも、全力で走り続けるかのように進化をつづけていかなければならないのだ、ということを意味しています。
実際、「人生」についての赤の女王的な競争は、すでに中学時代から始まっています。多くの中学生がそれを知らないでいることがまず一つの問題でしょう。そして、山田昌弘によれば、そのような競争によって人々はそれぞれ割り当てられた水道管の流れに乗って生きていくが、現代はその水道管にもたくさんの“水漏れ”が生じており、簡単に転落するリスクの高い時代なのだ、という話でした(『希望格差社会ISBN:4480863605)。
このような現代を、特に何かせずとも安定し安心できた「安心社会」から、リスクはあるが人々が“信頼”によってつながる「信頼社会」への転換なのだ、と山岸俊男は楽観的にうたいあげました(『安心社会から信頼社会へ』ISBN:4121014790)。ぼくは刊行されてすぐそれを読んだのですが、「何をバカなことを」と思ったのを覚えています。「信頼社会」などと言って、それは安心して生活していけない「不安心社会」の言い換えに過ぎないじゃないか、と。そして実際、そのことをウルリッヒ=ベック『危険社会』ISBN:4588006096していたわけです。


よのなか、もう少しどうにか、ならないもんなんでしょうか……?