森達也『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』(2)

マスコミの話は置いておいて、先に進みます。著者のことば。

撮影の準備期間も入れればもう二年以上彼らと接してきたことになるが、オウムについて君は何がわかったの? と訊ねられれば、僕はこう答えるだけだ。
「何もわからないことがわかりました」


世の中のほとんどの現象は、「わかる」ものだという前提を僕らは持っていた。そしてこの思い込みが、僕らの日常を成り立たせてきた。曖昧に「わかる」ことで、僕らは平穏な日々を送ることができた。
オウムは、この思い込みと、曖昧さによって成立してきた日常を、抉りとって目の前に突きつける。これまで何人もの人たちが、オウムを解析するために膨大なことばを紡いできたが、そのすべてをオウムはあっさりと否定する。いや正確には否定すらしない。遥か彼方で笑い声が聞こえるだけだ。
結論だ。オウムはわからない。「信じる」行為を「信じない」人間に解析などできない。この一線を超えるためには自身も「信じる」行為に埋没するしかない。しかしその瞬間、僕は間違いなく「表現」を失うだろう。選択肢はない。オウムは既成の言語に頼る限り、どこまでいっても「わからない」存在なのだ。(pp.198-199)

宗教の、あるいは信仰の内部にいた人間としてぼくに言えることがあるとすれば、この著者の結論は、半分正しく、半分間違っていて、全体としては“大げさ”だ、ということです。


半分正しいというのは、「信じる」ことには「信じない」人間にとって“どこまでいっても”わからないところがたしかにあるからです。そして半分間違っているというのは、宗教をやっている人間が宗教をやっているというそのことだけで「何もわからない」と言われなければならないほど理解不能なはずはない、とぼくは思うからです。
多少不正確でしょうが、一つたとえ話をしてみます。酒を飲んだ“感じ”が、酒を飲んだことのない人間に理解できるかどうか。その“感じ”を直接的に“知る”には、飲んでみるしかありません。それをしない限りは、「どこまでいってもわからない」部分は必ず残る。そんなのはごく当然のことです。でもだからと言って、酒を飲まない人には酒を飲むことはまったく「理解不能」でしょうか? そんなことありませんよね。
なぜ彼が飲酒するのか、それは当人にとって「気分がよくなるから」「酒がおいしいから」とか、あるいはもっと科学的説明に頼ってみるとかいったかたちで理解できる部分は必ずあります。これを「外面的な理解」と言って切り捨てる向きもあるかもしれませんが、ぼくはそういう片づけ方に反対です。「ジョハリの窓」に言う「Open Window」と「Hidden Window」だけがThe Selfだろうか、そういうとらえ方こそ一面的に過ぎるのじゃないか、とぼくは考えますし、主観的なものこそ真理のすべてという主張は現代において認識論的にも棄却されかかっています。


もう一つ、これは無宗教の人にはほとんど想像の及ばないことでしょうし、宗教をやっている人でもそれに自覚的な人はあまりいないでしょうが、重要な論点があります。
それは、現代においてはどんなに熱心な信者でも、マジで何もかも信じ込んでいる人は、実はそう多くない、ということです。


本書の中でも、それらしいエピソードはちらほらと見受けられます。たとえば荒木浩が、もし麻原彰晃サリンを撒けと言われたらどうするか、と著者に水を向けられたときに、撒きません、と答えたくだり。また、ある信者が、「フリーメーソンの陰謀でオウムが攻撃されている」というのを、オウム自身がそう喧伝していたことだったはずですが、冗談として語って吹き出すくだり、など。
宗教の教義には、どうしても現実との齟齬があります。逆に言えば、現実との齟齬がまったくないような教義体系であるなら、それはすでに“宗教”とは呼べません*1。それでは、教義と現実がぶつかったら、信者はいったいどうしているのか? 答えは簡単です。ほとんどの信者は、それを「曖昧に」やり過ごしているのです。著者にわかっていないのは、宗教教義というものが、信者たちにとっては日常を「曖昧にわかる」ものにし、「平穏な日々を送ることができ」る装置として機能する事実、すなわち、宗教というものが(著者の批判する)「思考停止」の手段であるということです*2
完全自殺マニュアルISBN:4872331265鶴見済は、その続編ともいうべき「薬物のススメ」である『人格改造マニュアルISBN:4872333098なことを言っています。ドラッグは危ない遊びに走る人たちのためにばかりあるのじゃなくて、世の中にうまく適応できない人にも必要なのだ、こんな世の中で「自殺もせずになんとか楽に生きていく」(p.2)ためにこそ、薬物を使えばいいのだ、と。たしかに新人歓迎会を「飲み会」として設定するのは、酒(ドラッグの一種)を入れることで新人の硬い心をほぐすためでもあるでしょう。そして宗教は、この意味でたしかに、クスリを使わないドラッグなのです。マルクスじゃありませんが(^^;


こう言うと信者の人たちには怒られてしまうかもしれませんが、現代において人が信仰を始めるのには、往々にしてあまり宗教的でない理由が存しています。信頼する友人に強く勧められたとか、その場所が自分にとってけっこう居心地がよかったとか。信者の家に生まれついてそのまま信者として育ったぼくのようなケースも多いことでしょう。
どんなことにでも好き嫌いの別というものは個々人がそれぞれに抱えているものですから、人間が集団で生きていく以上、その集団のやり方に合う合わないの別というのも出てきて、多数派と少数派に別れ、そのようにしてこの社会に適応できない人というのはいつの時代も一定の割合で必然的に存在するものなんであって、そういう人たちにとってこの社会はいつも必ず「間違っている」ことになります。間違った世の中に、それでも生きていかなければならないとき、いったいどうしたらいいのか。その一つの手段として「宗教」というものがある。宗教とは別にそればかりの存在ではありませんが、現代における多くの信者のたもつ信仰の根本機能はそれではないかとぼくには思われます。
ぼくは自分が「宗教の言うことが正しいとついに思えなかった」から辞めた関係で、多くの宗教者・信者と「宗教的真理」について議論をしましたが、誰一人納得のいく返事をくれた人がありませんでした。逆に相手がぼくの言うことの正しさを理解することすらありましたが、それでも辞めるわけではない。教義の誤りや怪しさを認識したところで、それでも実際にこの目で見たんだとか人間関係のしがらみだとかなんとか様々な理由があって、それこそぼくのように“正しさ”を最優先させるような変わり者でない限り、辞めないんですね*3
「君の言うことは科学的すぎて非人間的だ」とかなんとか理由をつけて、ぼくと距離を置き、ぼくとぼくの言ったことを頭の片隅から追いやることで、それを曖昧に片づけ、平穏な日常に帰っていく。ぼくはこういう態度が、無宗教的な一般の人々の生活態度といったい何がどれだけ違うのだろうか、と思います。


「私は○○教を信じ、△△師に帰依している」なんて信者が言うのを見てゲゲッと思う人もいるかもしれませんが、そんなこと、口先だけであれば何とでも言える。そのように言うことが、そのように振る舞うことが、教団の中のある立場に自分がいるんだよ、ということを他人に示すためのデモンストレーションに過ぎない場合は多々ある。
そう振る舞うことは、本人と仲間にとって帰属意識を、そして外側の他者に対する自らの正統性の意識を高め*4、その反照としての安心感を得ることができる。また違った言い方をすると、他の信者の目がある前で、その人が内心はどうあれ自分の不信心を表明することには抵抗感があるはずです。だって、そのことによって教団内での立場を失いかねないわけで。居場所を求めて入信したのなら、それを自ら手放すマネなんかできないんですから。
現代日本の多くの宗教信徒は、外部からそう思われるほど熱心にそれを信じ込んでいるわけではない。初詣や葬式とか、占いとか自己啓発とか精神分析だとか、一般の人でもよくやることの延長線上に地続きなかたちで存在するに過ぎない。ただ、ひとたび教団の成員になったからには、会社員が「ネクタイ着用」とか「出産退職」みたいな(しばしば不合理な)ルールを守っているのと同じように、その“社会”のルールを守ることになるのです。北の某国だって、国民の全員が全員、本当に心の底から国家元首を崇拝しているはずもなくて、それはジョージ・オーウェルの『1984年』ISBN:4150400083けですから。
逆の言い方をすると、心の底からマジで信じ込んでいる人がいるとしたら、宗教がどうとか言う以前に、単に「頭のおかしい」人である可能性が高い、とぼくは思います。「私は神と話をしている」なんて大マジメに言う人がいたらオツムを疑うでしょう。それと同じですよ。そういう信者とそうでない信者、一見して違いがわからない、と言われるかもしれませんが、ふつうの人だって初対面でどんな人かなんてことはよくわかるはずがないのであって、少し付き合ってみれば自ずとわかってくるもんです。「この人はけっこう話がわかる」とか、「コイツは本物だ!」みたいに。


ここで少しだけ寄り道。
教勢、つまり教団が大きくなるほど、その宗教は大きな力を持ち、よって恐ろしい、と無宗教の人には思われがちですが、ぼくは一般にはその逆ではないかと考えます。ある教団の組織が大きいとしたら、その主な原因は教義が多くの人にとって受け入れやすいためです。前回ふれた、経済学的/進化論的な視点からそれを述べることができますが、次のblog記事が参考になります。

教義が受け入れやすいということは、それだけ“常識的”であるということであって、それは逆に言えば宗教的には現世的である、つまり内容が薄いということでもあります。「宗教的な内容の薄い宗教を信じる」というのは矛盾していると思われるかもしれませんが、世の中そんなもの。先のドラッグの話に引き寄せれば、強いクスリと弱いクスリそれぞれあって、弱いクスリを飲む人の方が多いのと同じことです。
ある「宗教的真理」なるものが事実「真理」なのであれば、旧約聖書の『ヨブ記』のように、それが常識に反していようが自分たちに不都合だろうが信じざるをえないはずですが、世の多くの人々は、宗教的真理の“真理性”なるものに無頓着なまま、自分が“信じやすい”教義を功利的に選びとって平穏無事に日々を過ごしているわけです。パスカルの「賭」*5の議論を「罰当たり」などといって非難する資格が誰にあるんでしょうか。


『A』というドキュメンタリー作品が“ふつうの”人々にとって衝撃的でありえたその理由は、オウムに属する人々の、テレビや雑誌では報道されない“ふつうさ”をとらえ、映し出しえていたからに他なりません。
マスコミにとって、そして一般の「市民」にとっても、オウムは敵であり、絶対悪でなければならなかった。だから、“ふつうの人”としてオウムを撮ることそれ自体が「オウム擁護」ということになり、ひいては「反社会的行為」と一部の人々にとらえられた。
ぼくのような人間にとっては、宗教をやっている人がそうでない人と変わらない人種であることなど当然すぎるほど当然です。ただ、ちょっとした考え方の違い、あるいは言葉づかい、服装、インテリアといったところに目に見える違いがあるだけ、という場合がほとんどなのであって、そんなのは要するに「異文化」の範疇の話に過ぎない。しかし、そんなふうに思う人間がこのような業績を残せるはずもないので、その意味でこの本、そしてその著者の存在はとても貴重なものだと思いました。
ただ、著者が、「主体性の国」というこの世にありもしないユートピアを探して、部落解放同盟オウム真理教の中に(あるいはそれを撮るという営為を通じて)それを見いだそうと懸命になっているように見受けられるのは、正直な話、“小市民主主義者”のぼくには理解はできても共感のしにくいところではありますが……。


本書以外に、重大事件の当事者となった宗教団体についての優れたノンフィクション作品としては、大泉実成『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』ISBN:4061850660。『A』にふれて何か感じられたなら、併読をおすすめします。大泉実成のその後の仕事はぼくにはあまり評価できませんが、これは名著と思ってます。


あ、あと最後に捨て台詞を一言。
「日本はフェイクな国」だとかなんとか、ゲッベルスにたぶらかされたドイツ人なんかに言われたかねーよ!

*1:「逆」というより「対偶」ですけどね、論理学的には。しかし、「常識」もまた宗教の一形態である、というとらえ方をするなら、ごく広い意味で「世の中すべて宗教」という言い方も可能でしょう。実際、「常識」の機能は「宗教」のもつ機能とほとんど変わりません。

*2:そのことは、ぼくが以前書いた「マトモな哲学のすすめ」の中でも少々ふれています。もし本当に日常の曖昧さを剔抉したいのであれば、著者は「宗教」でなく「哲学」にこそ焦点を当てるべきでした。

*3:実際、そんなぼくですら、棄教の際にはアイデンティティ崩壊の危機に瀕したわけですから、何が何でも「正しい」ことが一番という志向性を持たない一般的な信者が、もし本気で宗教の正当性の問題に関わってぼくの言うようなことを正面から受け止めてしまったとしたら、その人の中で何が起こるのか想像もつきません。あるいは、ぼくのようにプッツリと棄教したりなどせず、次第次第にフェードアウトするようなかたちで、案外「曖昧に」辞めていくのかもしれませんがね(^^;

*4:だって自分たちのほうが「正しい」ということになってるんですから、たとえ本人すらそれを信じてなくたって。マジでそう信じるというより、そういうことにしておきたいという場合がほとんどなんです、実際のところは。

*5:あの有名な『パンセ』ISBN:4121600142上重要な議論です。『パンセ』のキモはこの議論にあるのであって、「一本の葦」がどーしたとかいうのは詩的な飾りに過ぎないのでうっちゃってよろしい、というのは私見ですが。