小市民主主義宣言

ぼくのものごとを考えるときの姿勢は「プラグマティズム」に多くを負っています。その中でも特に、政治的な問題を考えるときの自分の立場について、あまりしっくりしたことばがなかったので、自分でつくりました*1。それが、こないだチラッと書いた「小市民主主義」です。


とはいっても、それに何かハッキリとした政治的主張があるわけではありません。何といっても「小市民」ですから(^^;
ただ、ときたま覚える自分の政治的感覚に、何かラベルを貼っておけば、輪郭が見えてくるのではないか、そう思ったのでしばらく前からそう呼ぶようにしました。ラベルに引きずられてブレが生じる可能性もないわけではありませんが、ブレと本来がうまく切り分けられるわけでもないし、何か実りがあるなら別にいいや、と。
自分のその姿勢について、ごくプリミティブなかたちでではありますが、いくつかわかっていることがあります。とはいっても、これまでに何度か書いてきたことですので、ぼくの書きものをいくつか読まれてきた方には「またかよ」みたいな話でスミマセン。


この立場のセントラルドグマは、「多くの人が従えないルールを善なる道徳規則として定立することは認められない」というもの。中心的と言いながら消極的な主張なのは、小市民の小市民たる所以です(^^;
この主張、少しだけ分析してみましたが、あまりうまくいかないのでこのままのかたちに留めました。


P→Q

Q→P

¬P→¬Q
対偶
¬Q→¬P

この表、中学か高校の数学の授業で、「必要十分条件」といったことばとともに目にした覚えのある人もいるかもしれません。
「P→Q」といった記号は、論理学に言う「論理式」と呼ばれるものです。ここに出てくる記号の意味を簡単に説明しますと、PやQは「命題」と呼ばれるもの。といっても論理学を知らなければ今の時点では意味がわからないと思いますが、少し後で「ああ、こんなもんか」と理解されるはずなので次にいきます。「→」は「ならば」、「¬」は「非」あるいは「でない」と読みます。以上から、「P→Q」は「PならばQ」。「裏」とある「¬P→¬Q」は、「非Pならば非Q」もしくは「PでないならばQでない」と読んでください。
元が「P→Q」のかたちになっている言明に対して、命題の出現順序を前後入れ替えた「Q→P」のかたちの言明を「逆」と呼びます。「裏」や「対偶」も、その下の論理式のかたちに準じます。論理学によれば、元の論理式とその対偶は論理的に同じことを指していますが、元の論理式と逆または裏は必ずしも同じではありません。しかし、逆と裏それぞれの論理式をながめているとわかることですが、逆と裏の関係は元と対偶の関係と同じなので、逆と裏は論理的に等価です。


わかりやすく例を挙げてみます。P=「魚である」、Q=「水中に住む」としてみましょう。
元の式は「魚は水中に住む」という意味になります。これは正しいと言ってよいでしょう。いや、ぼくは生物学は専門でないので、正しいということにしときましょう、という言い方でお茶を濁しておきます(^^;
次に対偶「水中に住まないものは魚ではない」、これが元の式と同じことを意味しているのがわかりますか? そして、逆「水中に住むなら、それは魚である」と裏「魚でなければ水中に住まない」が同じ意味の文章であって、かつ間違っているということもわかります? これを「逆は必ずしも真ならず」と言います。


それでは、ここからが本題なんですが、「多くの人が従えないルールを善なる道徳規則として定立することは認められない」という先の命題について、その逆・裏・対偶を導いてみましょう。単純に、P=「多くの人が従えないルールである」、Q=「善なる道徳規則として定立することは認められない」と考えて、文をつくってみます。

  • 逆=「善なる道徳規則として定立することが認められないならば、それは多くの人が従えないルールである」
  • 裏=「多くの人が従えないルールというわけでなければ、善なる道徳規則として定立することを認められる」
  • 対偶=「善なる道徳規則として定立することを認められるならば、それは多くの人が従いうるルールである」

*1:2006年6月18日現在、Googleに伺いをたててもヒットするページは他に見あたりませんでした。