森達也『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』(1)

こないだ『放送禁止歌』を採りあげました。世の中のこと、そして宗教の問題についてこだわりをもつぼくが、同じ著者の手になるこの本を採りあげない理由はありません。


「A」―マスコミが報道しなかったオウムの素顔 (角川文庫)

「A」―マスコミが報道しなかったオウムの素顔 (角川文庫)

社会現象について考えるとき、「(社会的)事実とは何なのか」ということがどうしても問題となってきます。マスコミについて論じる場合に、大きな関心を集め、それゆえにその大きな部分を占めるのは、やはりこの問題です。
「社会」を対象としてものごとを考えるとき、必ずぶつかるのは「再帰性」をどう扱うかということ。再帰性とは、社会学情報科学にふれた人には馴染みのある概念と思いますが、「再び帰ってくる」という言い方で「参照するものが参照しているものに参照される」ということを意味します。

この記事に対するコメントの最初にある田中さんという人の話を引用しますが、再帰性についてのとても直観的なわかりやすい説明になっていると思います。

もし本当に天気予報とおなじように経済予報が毎日流れたとして、どうなるんでしょうかね。たとえば、「株価は今週いっぱいゆるやかに上昇しますが、来週はじめに暴落します」という予報があたることはありえないんじゃないでしょうか。原理的に。

社会を対象にものごとを考え、語る、そのことが社会に影響を与え、その一員である自分自身もいやおうなく揺り動かされてしまう。社会について語ることは、それを語っている自分自身について語ることを含むわけです。
本書の中で、こういう話が出てきました。微粒子の挙動を観察しようとするとき、観察のために光を当てるなりする必要があるが、そのことが微粒子本来の挙動を乱してしまい、元々の挙動をありのままに観察することは決してできない。ぼくはこの話を「ハイゼンベルク不確定性原理」の説明として聞いたことがありますが、もちろん専門家でないので本当かどうかは知りません。が、社会について論じるということは本質的にこういうことを伴うのです。本書の著者、森達也が、しきりに自分の立場についての自問自答を繰り返すのも、その自覚のためです。


本書に登場するアクターは、大きく分けて5つに分類できます。まず、オウム真理教。次に、マスコミ。また、著者(たち)。さらに、国家。そして、「市民」。そのすべてが被写体となり、カメラのレンズにさらされ、言及されるわけですが、ここでマスコミについて著者が語っている一部分を引いてみます。

この作品においてはメディア批判は本来の意図ではない。(中略)しかし批判を声高にする気はないが、作品においては重要な要素であることは間違いない。視聴率や購買部数という大衆の剥きだしの嗜好に、常に曝され切磋琢磨を余儀なくされてきたメディアの姿は、ある意味でぼくが抉りたかった「日本人のメンタリティ」そのものなのだ。その意味ではメディアは決して軽薄でも不真面目でもない。たまたま志の低い人種がメディアに集まったわけでもない。メディアは僕たち社会の剥きだしの欲望や衝動に、余計なことはあまり考えずに忠実に従属しているだけだ。(p.196)

もともと考えていたことがあって、それにピッタリくるフレーズを見つけて後で使おうと思ったら「解説」で宮台真司にも引かれていてちょっとがっかりしたのですが(^^; それはともかく。
マスコミ批判言説に「マスコミはバカだから」「マスコミにはある悪意があるので」という紋切り型がありますが、ぼくは基本的にこういう考えに同意しません。そんなことが言えるほど、自分の知性に自信が持てない、という理由もあるにはありますが、もう一つ。「なぜマスコミは○○なのか」、そのような大きな社会現象を分析するのに、誰か特定の個人が抱えている嗜好とか悪意とかいったものを原因として措定することは、あまりにナンセンスで非現実的に過ぎると思われるからです。同じことが巷間存在する「権力批判」、あるいは本書の題材にもなっている「宗教忌避」の態度や言説にも当てはまります。
ぼくはこういう場合に、まずもって「効用」の観点から、経済学的あるいは進化論的に分析できないかどうか考えることにしています。大きな社会現象を考えるときに、それが○○という性質をもっているのだとすれば、それは、そのようであることが経済的にある種の安定状態をもたらすのではないか、それはその社会における“適応”的な在り方なのではないか、と。社会への適応としてそのような在り方をしているのだとすれば、その在り方と社会とはある意味で“共犯”関係にあるとも言え、つまりそれは社会を映す「鏡」なのです。


ところで、これは本書の裏表紙にある惹句(?)なのですが……*1

オウムの中から見ると、外の世界はどう映るのだろう? 一九九五年。熱狂的なオウム報道に感じる欠落感の由来を求めて、森達也オウム真理教のドキュメンタリーを撮り始める。オウムと世間という二つの乖離した社会の狭間であがく広報担当の荒木浩。彼をピンホールとして照射した世界は、かつて見たことのない、生々しい敵意と偏見を剥き出しにしていた―! メディアが流す現実感のない二次情報、正義感の麻痺、蔓延する世論を鋭く批判した問題作! ベルリン映画祭、山形国際ドキュメンタリー映画祭をはじめ、香港、カナダと各国映画祭で絶賛された「A」のすべてを描く。

テレビの、ワイドショーの「!」が踊るおどろおどろしい演出を忌避する著者の本が、このように「!」を使って紹介される現実。経済的な“強力”のどうしようもない逃れがたさは、こんなところにも如実に表われています。


書いてて長くなりすぎたので、つづきは次回、ということで。

*1:Amazonの書籍紹介でも同じものが見れます。