会話のイニシアティブと権力関係

巡回先である橋本大也さんのblogの以下の記事にコメントをば。

ぼくはこの記事を読んでこう思いました。その書名にならって、その本に書いてあることも疑ってみたらいかがでしょうか、と。


この記事中に出てくる男女間の会話の話は「会話分析」というものの一事例でしょう。それは、話をしている様子を録音または録画して、それを再生し、事実どんなふうに会話というものが進んでいくのかを詳細に分析する社会学の手法の一つなんですが、人間同士の会話の「プロトコル(ルール)」がくっきり明らかになる、とても面白い研究領域です。

専門でないのでよくわからないんですが、エスノメソドロジー、会話分析を扱った本にふれると、そのケースとしてこの「男女間の会話」の話が出ているのをときどき見かけます。ぼくも初めてその話を読んだときは「なるほどなぁ」と思ったものです。たしかに、男女で会話するとき、男はしばしば女性の話の最中に割り込みをいれるのに対して、女性が男の話に割り込むことはずっと少ないでしょうし、うなづき役は主に女性でしょう。自分の実感からもそれは肯んじることができる。
でも、ちょっと待てよ、と。少し考え始めると、だんだんと頭の中に「?」の数が増えていくんですね。この話はそのまま男女間の権力の非対称性の問題にイコールで結んでしまっていいものなのだろうか。


言語にルールがある、というのは昔からよく知られていたことで、「文法」はその代表ですが、それ以上に見えにくい“暗黙の了解”あるいは“お約束”のたぐいもいろいろあります。最近ハヤリの「空気読め」みたいな話ですが、これを研究する言語学の領域は「語用論(Pragmatics)」と呼ばれ、古典的な業績としては「グライスの原理」やデイヴィドソンの「チャリティーの原理」といったものが有名です。
男女間の会話のイニシアティブの取り方についての発見も、これらの業績に連なるものとして評価できると思います。これを抽象的な原理の水準でとらえるとしたら、「男女間の会話では男性がほぼ一方的に発話のイニシアティブを握る」ということになるでしょうし、そういうまとめ方をするなら、それはたしかに、男性が女性に対して一方的に権力を行使している、ように見えるでしょう。
しかし、そのとらえ方は一面的に過ぎないだろうか。抽象的な水準ではそういう感じで大づかみにとらえられはしたとしても、個々具体的な場面を考えたとき、実はそんなに単純な話ではないのじゃないだろうか。カテゴリー化、モデル・ストーリー、マスター・ナラティブを批判するその語りそのものが、“ミイラ”になっておりはしまいか。そう思うんです。


ここで一つの思考実験をしてみましょう。
ある女性A、男性BおよびCがいます。Aにつりあう性的魅力をもつ仮想の男性をOとしましょう。男性B、Cの性的魅力には「B>O>C」*1という関係があるものとします。ここで、<A−B>間、また<A−C>間の会話の様子は実際にはどのようなものになると思われるでしょうか。
たぶん、男性であるBやCが女性Aの話すことに割り込みを入れるのには、違いがないだろうと思います。Aのうなづく回数も、もしかしたらあまり差がないかもしれません。ぼくの実感からすると、<A−C>に比べ<A−B>でAのうなづく頻度はずっと多いとは思うんですが、とりあえず。
で、ここまで仮定してなお、明らかに差のあるだろうことはいくらでも思いつきます。たとえば、Aの表情。眼中にないCと話すより、憧れのBと話すほうが、Aの表情は明らかにイキイキとしていることでしょう。それから、会話の話の内容が違うんじゃないだろうかと思われます。<A−C>の組み合わせでは、話の内容がよりAの好みを反映する方向に、<A−B>の組み合わせではBの好みに流れるんではないでしょうか。以上のことは、性的魅力という誘因と、下心という動因が引き起こす、会話内容への「権力への意志」の働きと言うことができると思います。ここで、<A−C>において、「それでも、やはりCがAに対して権力を行使しているのだ」と断じてしまってよいものなのでしょうか???
このCのふるまいは、男性の女性への権力行使と単純にとらえるより、「男がリードして当然」という世の中の“暗黙のルール”=権力にCもまたとらわれているのだ、と考えたほうが、よりリアリティがあるとぼくは考えます。以上の話にはA・B・Cが「年頃の男女である」という暗黙の前提もあったりします(^^;


まあ、ここに述べたことはあくまで思考実験、机上の議論に過ぎませんので、実際にどうかは調べてみないことには何とも言えませんし、会話分析の歴史を考えたら誰かがすでにこの程度の議論はしているものと思いますが……。

*1:あるいはもっと極端に、「B>>O>>C」としてしまったほうが話がわかりやすいかもしれません。