森達也『放送禁止歌』

放送禁止歌 (知恵の森文庫)

放送禁止歌 (知恵の森文庫)

ふり返ってみれば小学生の時分から、ぼくは「表現の保護と規制」の問題に関心を持ちつづけ、それなりに本も読んできました。今回もその関係。ドキュメンタリー専門の一テレビマンの手になる、テレビやラジオで「放送禁止」とされる「歌」のできあがるメカニズムに迫った一冊です。
何もかもがアイマイなまま、事前に“気を利かせて”いつの間にか「放送禁止」という暗黙の了解が成立し、“臭いものに蓋”をしたまま、その責任を誰も引き受けない。そういう、とても「日本的」なメカニズムがそこにはある、ということがよくあぶりだされた快著であると思います。


しかし、すべてに納得できたわけではありません。


第三章はデーブ=スペクターとの対談で、「差別表現規制」に関するアメリカと日本の違いが話題となっています。
きちんと議論を尽くさずウヤムヤのままいつの間にか“自粛”ムードが全体を覆ってしまう。そういう日本の表現規制のあり方に問題があるのは明らかです。ブログに新しく書いたことをなぜか消されてしまった。「どうして?」と思って問いただしてみても、受付の人は「だって……、なあ?」と隣の人に目配せ、隣の人もアイマイな苦笑いを浮かべて、それでオシマイ。気分の全体主義。理由が明らかにされず、誰も納得してないのに、握りつぶされてしまう。
一方、ではアメリカのようなあり方が正しいのか。といわれると、ぼくは「う〜ん……」と唸ってしまいます。たしかに議論は必要でしょう。しかし、アメリカの現実は、ぼくの目には“極端”と映る。
ゾーニングが徹底していて、個室で、個人で楽しむぶんには自由ですが(丸出しですしね(^^;)、一歩外に出れば日本以上に体面を気にする国なのではないか。そういう感じがします。夫婦揃ってパーティーに行くのも、「俺たちラブラブなんだぜ!」と必要以上にアリバイづくりをしているような感じを受けますし、「日本人は酒にだらしなくて、人前で酔っぱらって平気でいる」なんて言ってる(らしい)のもよく聞きます。さすがは「The Prohibition」の国。
まあ、ぼく自身のアメリカ体験は旅行でハワイに一度行ったきりなので、これが偏見であることを否定しません。でも、実物のアメリカ人がそうではなかったとしても、本やテレビの中で見かける妄想の中の<アメリカ人>に対して、「人間関係って、世の中って、もう少しアイマイで、なあなあで、いいんじゃないの?」とぼくは言いたくなることがときどきあります。


あと、「表現規制」といえば「差別表現」、「差別表現」といえば「部落問題」。これらの組み合わせの結びつきはとても強く、この手の本を読むとしばしば触れられているものです。
関東生まれの関東育ちであるぼくには、生まれた場所による差別ということがいまいちピンとこず、実感しにくいところではあります。いや、身近にまったく例がないかと言われればもちろんそうではない。「田舎者」ということばがあるわけですから。これはハッキリと、都会育ちの人間が地方出身者をさげすむ目的で使われています。でも、ぼくが本を読んだりしてイメージする「部落差別」とこの「田舎差別」には、だいぶ大きなギャップがあるように思われる。そして、それだけ大きい(らしい)差別意識をもつそのメンタリティが、ぼくにはまるでリアルに感じられないのです。
それはともかく、この本でもやはり第四章を「部落差別と放送禁止歌」と題して、まるまるこの問題に割いています。もちろんこの問題は大事だと思うのですが、なぜこの本では、「部落」といえば「部落解放同盟解同)」なんだろう、と。部落差別関係の大きな団体として、もう一つ「全国部落解放運動連合会(全解連)」が当時あったのに。解同全解連の部落差別に対するスタンス、そのとらえ方は大きく異なります。異なるから分かれたわけですが。だとしたら、両方の話を聞いてみる必要があるのじゃないか、と思われたのです。
……と思ったら、この本、もともと解放出版社解同系の出版社)から出たんですね。それでなのか、な?


「主体性のない規制」への、いや「主体性のなさ」そのものへの、著者の追及は厳しい。

複数の意見の折衷案からなるドキュメンタリーなど、本来はありえない。なぜならドキュメンタリーは「単独の視点」であり、「個的な世界観」を表出することにその存在理由があるのだから。(p.84)


放送禁止歌は実在しない。巨大な共同幻想でしかない。具体的な放送禁止歌は、メディアに帰属する一人ひとりのイメージの中にしか存在しない。いやメディアという発信する側だけではなく、歌い手や受け手の側の思いこみもこれに荷担する。ニキビ面した僕がそうだった。僕の世代のほとんどがそうだった。
(中略)
射程に置くべきは現在だ。自分自身も含めメディアに帰属する一人ひとり、そしてメディアを享受する一人ひとりが、実は無自覚な「規制の主体」であることを現在進行形で抉りだし、画面に定着することが、このドキュメンタリーにおける重要なテーマのはずなのだ。(pp.80-81)

批判、糾弾を恐れて、簡単に、安易に思考停止してしまうこと。そうして問題提起する発想もその機会もアイマイに隠され消されたまま、すべてがラクなほうへ、ラクなほうへと流れていくこと。それは、制作者、視聴者、さらには歌い手、そして著者自身すらも“共犯者”として深く関わっているのだということ。
そうしたことを言挙げする著者の問題意識はよくわかります。大事な論点だと思う。しかし、ぼくは、その考えに全面的には同調できない。
なぜなら、「リスクに見合った評価(リスクプレミアム)を受けてしかるべきだ」という意見には賛成ですが、「すべての人がリスクを負ってしかるべきだ」という意見にぼくは賛成できないからです。


ぼくは、多くの人が自分の頭で何も考えずにボヘ〜ッとだらしなく安穏とした人生を生きている/生きていくことを、基本的に肯定すべきだと思っている。


ぼくは新宗教信徒の家に生まれ、青少年時代に悩み抜いた挙句に棄教した人間です。そのことで、多くの人とは違うものの見方を獲得したり、そんなぼく自身を評価してくれる友人にも恵まれました。そういうプラスはたしかにあります。ありますがしかし、ハッキリ申せば、ぼくはそのように悩むことが本当にひどく辛かったし、親類・友人・知人関係や自分のキャリアも含めとても多くの(そして多すぎる)ものを犠牲にしました。もし生まれ変わることができたなら、ぼくはぼく自身にそんなふうに悩むことを絶対に勧めはしないでしょう。
自分の頭で考え行動することには、時にその人の人生自体を台無しにしかねないとても大きなリスクが生じる。ぼくはそれをすべての人に勧めようとはとうてい思えませんし、勧めたところで相手がそれに自発的に従うこともほとんどないように思われます。
そんな中でも、ごく稀に、そうしたリスクを自ら引き受けたがる人が出てくる。そういう人はそういう人で勝手にすればいいし、そんなときは、そのリスクに見合った大きな評価がきちんとなされるシステムが、この世の中にあってほしいとぼくは願っています。


こないだ「マトモな哲学のすすめ」と題して哲学入門の記事を書きましたが、一方でぼくは、哲学なんて必要なければしないにこしたことはないんじゃないかとも実は思っていたりするのです。
以上のような考え方はぼくの中で一貫してますので、気になった方は[よのなか]とか[頭の体操]というカテゴリでぼくが書いている他のエントリも参照してみてください。