マトモな哲学のすすめ(1)

タイトルは違いますが、このつづきになります。

「トンデモ哲学」とは何か

「啓示(または“悟り”)」の問題について考えてみましょう。
宗教的、あるいはオカルト的な主張をする人はたいてい、自分自身か、自分が崇めている教祖のどちらかが、啓示とか悟りと呼ばれる何らかの超自然的な手段によって何らかの「真理」を得た、ということを主張します。一方、精神的に病んで妄想を得る人にも、私は神と話ができる、私の言葉は神の言葉である、ということを言う人がいます。しかしこの両者、いったいどのようにして区別することができるのでしょうか?
その人の言っていることは、実は本当のことかもしれない。しかし、同じようなことを言う人は他にもいて、互いに「あいつの言っていることはウソだ、あんなものを信じたら地獄に堕ちるぞ」と言っている。もしどちらかが本当だとしたら、実際、その反対の者の言うことを信じたら“地獄に堕ちる”ことでしょう。だからといって、その言い分が真実であることを確かめる手段がないわけです。さあ、これは困った。


数学で、「円周率を導く」問題を解いているとしましょう。
ある人の答案を見ると、途中の計算がメチャクチャです。「3 + 5 = 10」なんて明らかに間違った計算式まで見つかりました。にも関わらず、その答案の最後にはなぜか「答え 3.14」(小数点第三位以下略)としっかり書いてある。本人に聞いてみると「だって出ちゃったものは仕方ないじゃん」とのこと。それでは、この人は「円周率の導き方を知っている」と、言っていいものなのでしょうか?


どちらに欠けているのも同じもの。「そう言える根拠」、これです。


前者の問題は、「私は真実を得た」と言われても、実際にそう言えるだけの証拠がない限りは、それが本当に啓示や悟りなのか、それとも妄想であるのか、区別がつかないということです。
後者の問題は、“そう言えるだけの証拠”というものは場合によって、目で見たり手で触れたりデータとして示せるような具体物である必要はないけれども*1、その場合でもそれが正しいと言えそうな話の筋道をきちんと示すことが大切なのだ、ということです。
ぼくは、以上のような「そう言える根拠」を軽んじる態度に触れると、これは「トンデモ」だ、と感じます。そして、そのような態度によって貫かれる哲学的営為を、ぼくは「トンデモ哲学」と思います。


ここで啓示の問題に立ち返ってみましょう。このようなときマトモな人間が採りうるのは、“その言い分が真実であることを確かめる手段がない”以上は、「態度を保留すること=真実だと思わないこと、信じないこと」以外にありえません。だからぼくは、トンデモ哲学の議論について、誰かがそれを真実だときちんと証明してくれるまでは、とりあえず眉にツバをつけておくことにしているのです。
カール=ポパーは次のように言っています*2

あらゆる知識人には、まったく特殊な責任があります。知識人には、学問をする特権と機会が与えられているのだから、仲間に対して(あるいは社会に対して)自分の研究成果を、もっとも簡潔でもっとも明瞭に、かつもっとも謙虚なかたちで説明する責任があります。もっとも悪いこと──大罪──は、知識人が自分の仲間に対して、大予言者気取りで立ちまわり、彼らを御神託の哲学で感化しようとすることです。単純、かつ明瞭に述べられないのであれば、そのような者は、沈黙して、言いたいことがわかりやすくなるまで仕事を重ねるべきです。

「ご神託の哲学」。トンデモ哲学の本質について、正鵠を射た表現だと、ぼくは思います。
このポパーの主張の何から何まで同意するわけではないのですが、少なくともこれだけは言うことができるでしょう。トンデモ哲学の烙印を押されたくなければ、その主張が「ご神託」に堕すことのないよう努力する必要があるのだ、と。「反基礎づけ主義」を免罪符にしてそのような努力の契機そのものを放棄することは、ぼくには認めることができません。


次回は、マトモな哲学を始めるための入門書の紹介をしようと思います。

*1:前者の問題では、その言い分が真理であると認められうるような具体物を証拠として挙げられるならば、その主張に少々の論理の飛躍があろうと、十分に真理の候補として吟味の対象になりえます。

*2:いい言葉だと思ってメモったのですが、書名を控えなかったので出典が示せません。たしかアドルノを批判して言った言葉だったと思いますが。