哲学の境界設定

中村さん vs bewaadさん「経済学は科学か?」

巡回先であるbewaadさんのところで久しぶりに「中村正三郎のホットコーナー」の名を目にしたと思ったら、こんな内容でした。

ぼくは、経済学が意味がないとか、役立たずとは思ってないし、人類の役には立ってると思ってる。でも、科学などといわれると、冗談だろうと(一応、数理経済学は除外しておくけどね)。
生命のメカニズムやゲノムがわかってなくても、大昔から農業は品種改良なりの工夫で人類の役に立ってきたでしょ。そういう意味では役に立ってるとは思ってますよ。でも、経済学が科学だといわれると、自然や科学をなめているんじゃないかと。

学生時代には巡回先でした(遠い目)。あの頃はMicrosoftNetscapeSun Microsystemsに対していろいろヒドイことをおおっぴらにしていたので、中村さんの反マイクロソフトの姿勢に共感し、よく見に行っていたものです。が、そのへんのゴタゴタがだんだん落ち着いてくると、どうにも「揚げ足とり」に近い内容がハナについてくるようになり、自然と離れていきました。そして久しぶりに見てみた感想。「あいかわらずだなあ〜(^^;」
で、以上を受けて次のエントリにコメントしたのです。

中村さんにお言葉を返すならば、「経済学が科学でないといわれると、科学哲学をなめているんじゃないかと。」

哲学の境界設定

そこでは「科学の境界設定(demarcation of science)」を話題にしましたが、後からふと思ったのは、それに対して「哲学の境界設定」はいったいどうなんだろう、ということでした。
さっきGoogleで引いてみたら一件しかヒットしません。「哲学の境界」で検索をかけてみるともう少しいろいろ出てきましたが、いずれも「○○と哲学の境界」というフレーズであって、「科学の境界設定」とはだいぶ趣きを異にしています。しかし、これから説明しますが、キャッチフレーズこそ無いものの、このモチーフ自体は以前から存在しているのです。実際、「哲学 境界」の検索ワードでそれっぽい話がようやくチラホラと見えてきます。


「科学の境界設定」とは、その原語demarcationに「縄張り争い」という意味がありますが、正にそれは「科学」という語をめぐった縄張り争いを指すフレーズでして、今回の「経済学は科学か?」というような議論はその一例です。その典型的なパターンは、あるものを「科学」と見なすかそれとも「疑似科学」と見なすのか、もう少しくだけた言い方をすると、「科学」を称するあるものはマトモであるのかトンデモであるのか、ということを議論するのがそれに当てはまります。
ぼくが「哲学の境界設定」というフレーズで意図したのもそういうことで、「哲学」を名乗るある流れが、真正の哲学であるのかあるいは「疑似哲学」であるのか、マトモな哲学なのかトンデモ哲学なのか、という「哲学」の語をめぐる縄張り争いです。
Googleで引っかかったものはいずれも、哲学以外の分野と哲学とのあいだの境界を問題にしているものばかりで、哲学内部の縄張り争いに言及したものが見あたりませんでした。そのことは「哲学の境界設定」というフレーズが一般的な形で定立していないことを物語りますが、しかしではそういう議論がまったくないのかといえばそうではないのです。

サイモン=クリッチリー『一冊でわかるヨーロッパ大陸の哲学』ISBN:4000268724ますが、この本は書名が内容を正確に表わしていません。だからその解説で野家啓一は、羊頭狗肉ならぬ「羊頭牛肉」」という言い方をしています。原題自体が「Continental Philosophy : A Very Short Introduction」というので、もとの書名のつけ方がそもそもおかしいと思いました。
それで、その内容はザッと目を通したかぎり「哲学における“二つの文化”(スノー)」とでも言うべきもので、哲学における「ドーバー海峡」の重大さについて述べられています。法学で大陸系と英米系の違いという話をよく見かけるのですが、哲学にも同じように大陸系と英米系の違いというものがあり、クリッチリーの本では大陸系が「大陸哲学」、英米系が「分析哲学」と呼ばれています。「男と女のあいだには〜♪」という歌がありますが、ドーバー海峡はそれこそ「暗くて深い」のです、哲学的には(^^;
ちょっと前のものになりますが、『現代思想』2001年11月臨時増刊号は「現代思想を読む230冊」と銘打ち、各界の研究者や評論家に一つずつお題を与えてブックガイドをしてもらったものです。その項目の一つ、戸田山和久分析哲学」は、他の項目がいかにも“現代思想”っぽい文体であるのに対し、ひどくくだけたノリの軽い文体で何が書いてあるのかと思えば。

しかしあなたが哲学的問題を抱えていて、そしてそれをもっと高度なレベルで考えたくなって、そしてその問題に取り組む喜びを他の人々とも共有したいのだったら、あなたはまず<分析哲学>を学ぶべきだ。だって、現代においても残っている現在進行形の哲学といったら、<分析哲学>しかないんだから。(p.131)

とても挑発的な「分析哲学宣言」という感じですが、ここに「哲学の境界設定」のモチーフが明確に現れていることがわかると思います。この言い方に、中村さんの話と同じニオイが感じられることでしょう。いったいに、ここで言われている「現在進行形の哲学」、いや「哲学」とは何なのか、それは自分の議論に都合よくあわせた定義の問題に過ぎないんじゃないか、と。
それではぼくが、この考えに反対か、といえば、実はそうでもないんですよね……。先のbewaadさんのエントリで引きあいに出した『疑似科学と科学の哲学』ISBN:4815804532治は、明確な線引きができないからといって科学と疑似科学が区別できないわけではない、ということを「はげ頭」の議論を通して説明していました。地続きだからといって富士山と八ヶ岳が区別できないわけではない、と言ったのは佐倉統でした。ぼくは、マトモな哲学とトンデモ哲学の区別はありうるのではないか、と考えています。それがそのまま分析哲学と大陸哲学の区別に当てはまるわけではありませんし、だからもちろんそう言いたいわけでもないのですが。
人のふり見て我がふり直せ。規範についての主張と事実についての主張は区別すべきでしょうし、ほとんどすべての学問がもともと哲学から枝分かれして進化したものであるということからすれば、また哲学から「マトモな哲学」という“名前”の学問が枝分かれしたに過ぎない、という意見はもちろんありうるでしょう。トンデモ哲学を「疑似哲学」と、ぼくは言いません。それはたぶん哲学なのです。それがマトモでないのは「哲学」に対してというわけではないかもしれない。だとすれば「何に対してか」はまだハッキリとしませんが、ともかく「トンデモ哲学」というネーミングは、ぼくが自分勝手に、それを「マトモでない」と感じていることの表明なのです。


関連する話を次回に。