現実的な「賢い」生き方のために(1)

社会心理学認知心理学の研究が進むことで、人の判断には一般にたくさんの「エラー」が生じることが明らかにされました。口車や手品といった人をうまく騙す技術の多くは、そのような人の判断傾向の偏り(バイアス)を利用することによって成り立っています。悪徳商法、悪質な政治的オルグなどは、それを悪用したものです。それに対抗するにはどうしたらよいか。賢い消費者になろう、賢い市民になろう、そのためにリテラシーを身につけよう、ということになり、その手法として注目されるのが「批判的思考」です。
人間にはどのような判断ミスの傾向があるかがわかれば、それを避けるような思考法を体得すればうまくいく。当然ですね。価値に関わる議論には、アプリオリに一方の議論に肩入れしない。そのために、その議論の反対者の立場に立って読み込むこと。話の言い回し、相手の肩書きなどに左右されず、実際に何が言われているかに注目すること。批判的思考の教えにはその他いろいろありますが、いちいちもっともなことだと思います。
うちの父がこんなことを言っていたのを思い出します。早とちりの多い母と比べた、自分のものごとの捉え方の特徴を言ったものです。

「お母さんは“一を聞いて十を知る”。
 私は“一を並べて十を知る”」

一を並べて十を知る。堅実な思考と確実な証拠の積み重ねこそ、正しい認識へ至る王道である。批判的思考の本質をはからずも言い当てた一言だと思います。


しかし、それならばなぜ、ヒトは予め批判的思考を獲得するように進化しなかったのでしょうか。
人間の判断様式の性質は、「ヒューリスティクス」と呼ばれるものであることがわかってきました。一を並べて十を知る、機械的で確実な問題の解決方式を「アルゴリズム」と呼びますが、ヒューリスティクスはそれに対して、誰が言ったかは忘れましたが、「一を聞いて七を知り三誤る」というものなのだそうです。

「知らない人についていっちゃいけません」

親は小さな子どもにこう言って聞かせることと思いますし、多くの人はそのようにしつけられた経験を持っているだろうと思います。
でもですよ。なんで知らない人についていっちゃいけないんでしょうか。知らない人が悪い人と決まったわけではないし、知らない人についていったら必ず何か悪いことが起こる保証があるわけでもありませんよね?……というのが批判的思考の考え方です。このような言い方をあえてすることで、批判的思考の“デメリット”が明らかになるかと思われたのでしてみました。
要するに、批判的思考が(ある種の)確実性と完全性を求めるのに対して、一般的な人間の判断の仕方=ヒューリスティクスは、それが必ずうまくいく保証はないけれども、日常生活はだいたいうまくいくんだからそれでいいじゃないか、というものなのです。
ここでもう一つ、「錯視」の例を挙げてみましょう。

ここに挙げられている古典的な「ポンゾ錯視」や「フィック錯視」(別名“垂直水平錯視”)を見ていただければと思います。このような図形が「まちがって見えてしまう(=錯視)」ところが錯視図形のキモなのですが、ポンゾ錯視フィック錯視がこのように見えることには、それなりの合理的な理由があります。外に出て、道の真ん中に立ってみてください。道を地平線まで見渡すと、このポンゾ錯視のように三角に見えるでしょう。そこに、この錯視図形のような線が見えたらどうでしょうか。上の方にある線は、遠くにある分だけ「長く」見えるのは当然です。フィック錯視も同様で、自然界では、下に見えるものほど近く、上に見えるものほど遠くにあるのがふつうです。だとすれば、垂直な線は遠くまで延びている分だけ長く見えるのが道理なのです。
実際、これらはあくまでも「錯視」なのであって、そのように見えてしまうのは人間側のエラーです。それでも、そのように見えることが自然な状況ではだいたいにおいてうまくいく。うまくいくからこそ、そのような“見方”が、進化の過程で選ばれたのだと言うことができます。
何事も、突き詰めるには多大のコストがかかります。10の資源で8割方うまくいく、ということでも、それを10割にするには資源が100必要になる、というようなことは往々にしてあります。ヒトが進化によって、批判的思考でなくヒューリスティクスを獲得したのは、そのような思考の経済的な性質のためなのであり、人間に判断のバイアスが存するのは「戦略的無知」とさえ言えるのです。


つづく。