「いただきます」って言ってますか?

この記事が物議を醸しています。一番中心的なテーマの部分だけ引用しますね。

TBSラジオ「永六輔その新世界」(土曜朝8時半〜、放送エリア・関東1都6県)で昨秋、「いただきます」を巡る話題が沸騰した。きっかけは「給食費を払っているから、子どもにいただきますと言わせないで、と学校に申し入れた母親がいた」という手紙だ。

こ、これは……(絶句)。
ぼくの反応は、こんな感じでした。いやー、まさかこんなことを言う人がいるとは夢にも思わなかった。そう驚くとともに、カチンときましたね。「金を払ってるから当然だ」って、ぼくはこういう考え方って好かないんですよ。なんかすごく寒々しいなあ、と思うんですよね。
で、ぼくの感想はだいたいこんな感じだったんですが、「物議を醸してい」るだけに、他の人の感想もいくつか見てみたんですが……これはちょっと聞き捨てならないな、と思われたものがありました。「いただきます」は日本古来の美しい伝統文化なのだから、日本人ならば行なって当然である、と。
ぼくは、店屋で食事すると、ときどき店員さんに「ごちそうさま」と言っていくような人間ですが、それでも日本人云々をもちだされるとさすがに引きます。先のような難詰の仕方って、本当に可能なのかな? そう思ったので、疑問点をまとめてみました。

一、それが何か?

ぼくは神奈川県民ですが、「○○は神奈川古来の美しい伝統文化なのだから、神奈川県民ならば行なって当然である」なんて言われても、ピンときません。それがなぜ、日本人ということになると、同じ論理が通用するように思われてしまうのでしょうか。「日本人」ということばを「日本の国土で生まれ育った人」という意味で捉える限り、この疑問に対して有効な反論はできないでしょう。「日本人」ということに対して何らかの思い入れがある人以外には、「日本人なら○○して当然だ」という言い方をしても、「だから何?」と返されて終わりです。
よく考えれば、昔は「くに」といったらそこら中に“なんとか国”があったわけですね。東京は武蔵国でしたし、神奈川は相模国だったでしょう。ということは、なんで「神奈川県民」だと同じ論理が通用しないのか、それは神奈川は「県」であり「国」ではないからだ、というふうに考えても、その考え方はあまり普遍的ではないことになります。

二、日本人って誰のこと?

日本人といっても一枚岩ではありません。
民俗学創始者柳田国男は「常民」ということばを発明しましたが、なぜそのような新語をわざわざ導入する必要があったのか。基本的なモチーフだけを述べれば、一口に「日本人」といっても、そこにはいくつか種類の異なる人がいて、簡単に一くくりにはできなかったからでしょう。
たしか尾本惠市『分子人類学と日本人の起源』ISBN:478538638Xますが、日本人といっても元は大きく二つの人種があり、それが混ざり合ったのが現在の日本人の姿なんだ、という話がありました。明治期に日本にやってきた外国人研究者が日本人の顔を見てそのつくりの幅広さに驚いて、大きく二つに分けて「薩摩顔」と「長州顔」と名付けた。人類学によって、日本には土着の「縄文人」と渡来人である「弥生人」というのがあったことがわかって、この薩摩顔と縄文人、長州顔と弥生人が対応してるんですが、縄文人は「ずんぐりむっくりしていて、彫りが深く、体毛が濃い」、弥生人は「スラッとしていて色白で、顔はのっぺりしていて一重まぶた」という特徴がある。この弥生人はそのネーミングからわかるように弥生時代に大陸から渡ってきたのですが、そのまま日本の上流階級として君臨し、その後原住民を「征夷」の名の下に追い払ったわけです*1。インドのアーリア人みたいな話ですが、いったいこの場合、正当な(正統な)「日本人」はどっちなんでしょうか。
それから、文化を論じる場合に一般的に陥りやすい間違いとして、人口的には一握りにしか過ぎない上流階級の文化を「日本人の文化」と錯覚する、ということがあるので要注意です。「今どきの高校生は…」と言いながら頭の中では「一高(今の東大教養学部)」「三高(京大)」のイメージで昔の高校生を捉えていたら、それは明らかに比較の対象が間違っているでしょう。でも、こういうおかしな議論が歴史や文化の問題ではしょっちゅう起こります。柳田国男の「常民」は「庶民」に近い概念ですが、なぜ「“常”民」と名付けられたのか、考えていただきたいと思います。一例を挙げるなら、徳川幕府でも明治政府でも、中央政府によって「盆踊り」なんかがしょっちゅう禁止されてました。なぜなら、その昔、日本の庶民の祭りといえば、無礼講であり乱交があったのが一般的で、それが風紀を乱すと上流階級に考えられたからです。この場合、「日本の文化」はいったいどっちなんでしょうか。

三、「いただきます」っていつのことば?

「いただきます」とか「ごちそうさま」ということばは明らかに古語ではなく、近代的な語形をしています。この一点からでも、これを「日本古来の伝統」と言ってしまうのは早計ではないでしょうか。*2
たとえば「霊柩車」は伝統的な感じがしますが、あれは車であって、車の出現以前には存在しません(井上章一『霊柩車の誕生』ISBN:4022595027)。日本の女性が一般的にパンツをはくようになったのも20世紀に入ってからのことですし(同『パンツが見える。』ISBN:402259800X)、ザン切り頭も維新後のこと。赤松啓介『夜這いの民俗学ISBN:4750305677ば、明治大正ごろまでは全国各地に「夜這い」の風習があって、童貞や処女は12、3で捨てていたのが当然だったようですが、現代の状況とはぜんぜん違います*3。このように、「伝統」の問題を考えるときには、明治維新から第二次大戦にかけて、日本の風俗がものすごい勢いで変化したことを考慮に入れなければいけません。
第二次大戦以前からあるなら大昔からあるだろうと思ったら大間違い。たとえば、日本を代表する花といえば「桜」ですが、現在日本にはえている桜の7〜8割を占める「ソメイヨシノ」は、明治十〜二十年ごろに発明された園芸品種であり、それが誕生するまでは、日本の桜は一斉に咲いて一斉に散るような現在の花見の感じとは全然別物だったそうです(佐藤俊樹『桜が創った「日本」』ISBN:4004309360)。他にも、小熊英二の『単一民族神話の起源』ISBN:4788505282『つくられた桂離宮神話』ISBN:4061592645すると、「日本の伝統」と言われているものが、昔からあるように見えて実は最近になって政治的な理由から捏造された「神話」であることが少なくない、ということがわかります。

四、「豊かな文化」っていったい?

「美しい日本文化」が出てきたついでに外国の文化とどっちが豊かかなんて議論を始める例も散見しますが。
「文化に貴賤はない」……と言いたいところですが、自然法的な立場に近い倫理意識の点からはまったくの文化相対主義に与するわけにはいかず、その意味では、それぞれの文化にいい点・悪い点というものを見いだすことができます(たとえば謝秀麗『花嫁を焼かないで』ISBN:4750303046)。でも、そのような倫理に直接する領域を除けば、どっちの文化がより豊かであるかというお話には根拠がないように思われます。和服の女の子とチマチョゴリの子とチャイナドレスの子のどれが一番か。ぼくはどれでもウハウハです(^^;
と、それはさておき。杉本良夫・ロス=マオア『日本人論の方程式』ISBN:4480081798、巷にあふれかえる「日本人論」「日本文化論」が、いかに一部の日本人にとって都合がよく耳あたりのいい話ばかりをピックアップしてできているかということが実感できる。特に「アベコベ日本人論」という章が圧巻です。日本人のよくある風俗・慣習のピックアップの仕方を変えるだけで、人口に膾炙する一般的な「日本人論」とはまったく逆の“日本人論”がつくれてしまうことを証明しています。
発音の点で考えると、日本語は母音が5つであるのに対して、英語にはたくさんあるから、英語のほうが豊かなんでしょうか。いや、日本語は5つという少ない母音を駆使していろいろな思いを伝えられるから日本語のほうが豊かだ、……なーんていうのはアドホックな議論であって、そのように言ってしまった時点でもう妥当性なんか存在しないわけですよ。そういう言い逃れが可能だったら何とでも言える。そして、予め結論の決まった議論というのは、批判的思考の観点からもっとも避けられるべきことです。何をやらかしても「やっぱり将軍様は偉大だ」みたいな。このへんの議論は主にカール=ポパーの著作(たとえば『科学的発見の論理』)、及び「クリティカル・シンキング」というフレーズが題名に入っている本を参照していただきたいと思います。
それから、これは是非とも指摘しておかねばならないと思うのは、「karoshi」「taijinkyofusho*4」というローマ字綴りが世界で通用する、ということ。こんなことばを世界ではやらせるなんて、それは「豊かな文化」のすることなんでしょうか? こんなことは全然誇れることではないと思うんですけど。そして、これらはもちろん、「日本文化論」の枠組みで考えることができるのです。「過労死」については大野正和『まなざしに管理される職場』ISBN:4787232495、「対人恐怖症」については内沼幸雄『羞恥の構造』といった著作を参照してください。


最後に一言。「日本」を云々する人は、もっと日本のことを学んでください。

*1:結局はほとんど混血して、純粋な縄文人弥生人は現代にはあまりいないようですが。

*2:そもそも、北は北海道から南は沖縄まで、古来から日本人なら誰でも同じような言葉づかいをしていた、と考えること自体が誤りです。そんなことが可能になったのは、義務教育が普及し、ラジオやテレビの放送によって方言を始めとした生活習慣が均質化していくようになった“つい最近”の話。それ以前の時代には、地域や階級が異なれば生き方も異なっていました。

*3:「性の乱れ」なんて言われますが、その意味では「日本古来の美しい伝統への回帰」なんて言い方もしようと思えばできるわけです(^^;

*4:これでは長いので「TKS」と略称されることが多いようです。