ウェブの広がりと参入障壁(3)

そもそも、ウェブというもの自体が、それまで出版や放送といったマスメディアによって独占されていた「不特定多数に対する表現の場」を多くの人に開いた新たなメディアとしてありました。ウェブがなければ、こんなにたくさんの人と知り合うこともなかったでしょうし、こんなにたくさんの「草の根のすごい人たち」の存在も知らずに過ごしていたことでしょう。マスメディア独占の時代には、これはありえなかった。
ウェブの歴史は、この「システムの向上→参入障壁の低下→利用者の拡大→コンテンツの充実」の繰り返しであり、これがそのままウェブの進化の歴史でもありました。


インターネットの利用者が爆発的に増えたのはWindows95の発売によってだと思いますが、それまではMicrosoft製OSの利用者には、インターネットへの対応の遅れによって、ウェブがあまり開かれたものではなかったわけです。UNIXMacの利用者ばかりだったインターネットが、Windows95の出現によってWindowsユーザーにも開かれた。そのことによるウェブコンテンツへの+αは、WindowsのOSにおけるシェアを考えれば、たいへん大きなものであったと思われます。
しかし、それでもまだ、ウェブサイトをつくることは敷居が高かった。なぜなら、ウェブページというものはHTMLで記述されているので、その文法を覚えなくてはならなかったからです。HTMLというものが単なるマークアップ言語であり、マクロ言語も含めた他のプログラミング言語に比べてよほど簡単なものであったからといって、それが参入障壁にならないとは言えないし、事実そうであったからこそ「ウェブページエディタ」で商売ができたわけです。HomepageBuilderやGoLiveのようなウェブページエディタによってこの敷居がさらに下がりましたが、「それだけのお金を出してまで……」という人もまだいました。そこで、掲示板に書きこむような気軽さでウェブサイトの構築を可能にした「blogサービス」の登場が、そのようなニーズに道を開くこととなったのです。
このような新規参入の爆発的な増大があるたびに、ある種の人々は「S/N比が」とか言い出すわけですが、それはある意味トレードオフのようなものなんであって、このことに少しでも恩恵を受けた人間の言うべきことではない、とぼくは思います*1。そして、あなたがこれまで面白いblogエントリを一つでも読んだことがあるなら、あなたはその恩恵にあずかっていると言える。その記事は、blogがなければ書かれなかったかもしれないのですから。それに、赤い色メガネをかけている人にとっては赤くないものはすべてノイズに見えるかもしれませんが、それではその「ノイズ」と目に映るサイトを排除してしまってよいものでしょうか。いったい誰がどのような筋合いでSとNとを区別できるのでしょうか?


閑話休題。話を続けます。
そこまでしても、ここに参入障壁がないとは言えない。それは、読者が「不特定多数」であり、それを選別できない、という問題です*2
人がウェブサイトを開設する理由はさまざまありますが、その中には、特定の人に向けたサイトというものもあるでしょう。この「特定」というのは、「知り合い」であることもあれば「同好の士」である場合もありえますが、ともかくそういうサイトにとっては、無関係な人に乱入されたり観察されたりといったことは好ましい事態とは言えません。他人に理解されにくい趣味であればあるほどそれは当てはまることでしょう。また、単に友人とダベって無責任なことを書き散らしただけなのに、まったく見ず知らずの人に徹底的な批判を受けたりして興ざめに思ってしまって、「空気読め」と言いたいことだってあるでしょう。
それに、ある特定の人々を読者から排除したいというサイトもあるはずです。ぼくたちには「王様の耳はロバの耳」と言いたいときだってもちろんあるんですから。自分のサイトの掲示板にウチワ向けに書いた冗談を、検索してやってきた当事者に見咎められて裁判を起こされた、といった事例にも心当たりがあります。
こういったことが気がかりな人たちは、どんなに敷居が下がっていても、なお、ウェブへの参加に懸念があることでしょう。そのようなニーズは、それはそれとして尊重されるべきだとぼくは思います。その一つのソリューションが「mixi」でした。mixiの一般のblogとの大きな違いは、「互いに顔が見える」こと、そして作者が比較的自由に読者を管理・制限できること。そもそも「招待なくしては参加できない」会員制のサイトということが、mixiというサービスの性格のすべてを物語っています。


ここまでやってきて、はじめの話がひっくり返っていることに気づかれた方もいるのではないでしょうか。
ウェブの進化の方向性は、ある種の人々にとっては読者オリエンテッドであり、そのゴールは「作者の死」でした。ところが、ぼくがここまで縷々述べてきたことによれば、作者の主体性は否定できないどころか、それをサポートする形でウェブアプリケーションは進んできたということが理解されるかと思います。たしかに、ウェブの基本設計は作者の死を促すようなものかもしれません。そして実際、読者の利便をサポートする形でのウェブの進化もどんどんと進んでいます。しかしそれでも、作者は死ななかった。なぜなら、作者は死にたくなかったからです。死にたくない作者がいれば、それをサポートするのも市場の必然でした。たぶんこれからも、作者の延命をはかるウェブアプリケーションは、続々と生み出されつづけるでしょう。そうした「読者」と「作者」の綱引きの内からその対立を止揚するかたちで、ウェブの革新は起こることでしょう。
しばしば、この参入障壁の低下による「作者の増大」に対して、こんな揶揄が投げかけられます。書き手より読み手のほうが絶対的に少ないのだ、そんな状況で毒にも薬にもならない退屈な作文を書いていたって意味がないだろう、と。書き手は同時に読み手でもあるのだから、書き手でない読み手がいる以上、書き手より読み手が少ないということはありえないし、また、書き手を読み手として数えないなら、書き手が増えれば読み手が減るというのはパイの大きさが変わらない以上トートロジーにしか過ぎないのであって、そんな指摘こそ意味がないのじゃないでしょうか。
「ウェブはそもそもこれこれだから、それはしてはいけない、あれを求めてもいけない」。思えばfjのニュースグループではボランタリーなネットワークであることを理由に営利目的の利用を固く禁じていました。それが今では、見渡す限りAmazon AffiliateやGoogle Adsenseだらけです。善かれ悪しかれ、ウェブは変わる。新規参入者が増大して、「マナーが」「セキュリティが」と騒ぐヒマがあったら、いったいどうすれば皆がより多くの“快”を手に入れられるような社会システムを構築することができるのか、そのプログラムをこそ提言すべきじゃないだろうか、とぼくは思うのです。その提言は、世の中をよりよく、より豊かにしていくはずだと、ぼくは信じています。

*1:この後に続く文章を読んでもらってもわかることですが、「ネット上から排除したい」というタイプの議論に対して言っています。これは当然のことですが、自分で、あるいは何らかのサービスを利用することによって、自分がノイズと思うものをふるいにかけることは否定してません。

*2:このへんの話に関連して、ゴッフマン社会学の用語「儀礼的無関心」をキーワードに、しばらく前に激論が交わされていました。