ウェブの広がりと参入障壁

最近のウェブに関する議論を見ていて、何となく思ったこと。何となくなのでもちろん下調べも何もしてませんが。
この頃盛んに言われるようになった「ウェブの進化の方向性」というのが、昔の(?)「モダン/ポストモダン」という議論をそのままなぞっているように見えるので、つい昔の議論の主語だけウェブにすげ替えてわかった気になる、ということになりがちだなあ、なんて思いつつも、なかなかそうせずにはいられないことだし、話半分な感じで読んでもらえればと思います。


はじめに、Yahoo!に代表されるディレクトリ型のサービスの全盛期がやってきた、と。サイトを全体としてひとまとまりに見て、このサイトは「ラテン系」だからここ、あのサイトは「ガテン系」だからあそこ、というふうに配置していくわけですね。クラスター分析みたいな感じですが、そのようにしていくと一つの「系統樹」のようなものができあがる。これがディレクトリによる管理です。
その次にやってきたのは、Googleに代表される検索エンジンサービスの全盛期です。検索エンジンはそのサイトをひとまとまりのものとして見ない。ページ単位、それどころか単語単位でチョキチョキ切っていくわけです。その以前ではある一人の人をたとえば「理系」みたいな一つのレッテルで分類していたのが、実はその人にもいろいろな側面があったんだと、数えあげてみると「男性」「メガネ」「サラリーマン」「東京在住」「独身」……といった個々の特徴、言うなれば「属性」の集積として見るようになった。これはタグによる管理と言うことができます。タグ式では、ある一つのサイトが、注目しているタグによっていろいろなサイトとつながりを持ち、またそのつながりがその都度切り替わるわけです。
ディレクトリ的なものの一つの典型として「家系図」を想像してみてください。ある人は、イサクの息子のヤコブの……という場所にしか位置づけられないわけですが、その人がたとえば「男性」であるとか、「メガネ」をかけているとかいった属性をもとにして他の人との関係を見てみれば、縦型の家系図から横や斜めにたくさんの線が走るような感じになります。その様子は明らかに「網の目」ですね。「ウェブ」という言葉ももともと「蜘蛛の巣」という意味で、網の目を表象していたので、歴史的な前後関係はともかく、理念としては、検索エンジン的な、あるいはタグ的なものこそが真のウェブサービスなのだ、と考えられるようになっていきました。
ディレクトリ式のサービスでは基本的に各サイトのコンテンツのトップページにリンクを張ります。Yahoo!等からサイトに訪れる人は必ずはじめにトップページを通過していく。トップページはそのサイトのディレクトリ構造的にもトップにあるので、ツリー形式は保存されることになります。これに対して、検索エンジンからやってきた人はサイト構造で下位にあるページにいきなり飛んできて、そこだけ見て去っていくことが多い。ディレクトリ式だとサイトを全体として評価されるが、検索エンジン式だとサイトが部分的にしか評価されない、という印象は、たしかにぬぐいがたいわけです。いわゆる「ディープリンク禁止」というのは、そういう心性の発露だと言うことができます。


ほらね。ここまでくると、「ディレクトリ/タグ」に対して、「ツリー/リゾーム」、「パラノ/スキゾ」とか「モダン/ポストモダン」といった述語を対応させたくなってくるでしょ。あるいは、小此木敬吾の言っていた「アイデンティティ人間/モラトリアム人間」とか、そういった二分法も当てはめたくなってきますね。
この流れがウェブの進化の方向性であるのだとしたら、その先がどうなっていくのかは、こうした二分法に関わる議論を参照することで、ある程度の青写真を描くことができます。書く人のニーズから読む人のニーズへ、個人サイトのパーソナリゼーション、というような話を聞いていると、どうしたって「作者の死」「話者の死」を想起せざるをえません。その極北が「名無しさん」であり、「ネタニマジレスカコワルイ」なのだ……というふうに、どうしても筆が走ってしまいます。


というところで、次回に続きます。
勘のいい人はこの章題から、このあとぼくが何を書こうとしているのかわかってしまうと思いますが、しーっ、ですよ。