伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』(2)

途中経過の定時連絡です。「第二章 切断線を超えるもの」および「第三章 「キャラクター」とは何か」まで読んだところ。
この本、出版後たいへん話題になり、『ユリイカ』で特集があったとのこと。まだ半分しか読んでおらず、これから本題というところなので何とも言えませんが、今までのところで、この本が話題になった要因と思われるものをちょっと考えてみました。


まず第一に、面白いこと。
ぼくはマンガ評論を散発的にしか読んでおらず、ある時期までの大塚英志、その後かろうじて夏目房之介をフォローしている程度なんですが*1、一連の「萌え本」のような時流に乗じた“商品”ではなくて、それなりにマジメな“作品”として、まとまった本を読もうと思えたのはこれが久しぶりではないかと思われます。ただの評論ではなく、何とかして理論を構築しようという姿勢にも好感が持てます。
そして第二に、やはりそのタイトルでしょう。
これまでマンガ評論界で「マンガの神様」「神様テヅカ」という“手塚治虫神話”が幅をきかせてきたことは否めない事実だろうと思われます。紀要や何かの単品としては少しずつ出てきていても、まとまった単行本としてその神話に真っ向勝負した(かどうかはまだ半分しか読んでないぼくには確認できてはいないんですが(^^; ともかくタイトルでは)のはこの本が初めてじゃないでしょうか。
そして第三は、やはり、この本にツッコミどころが多かった、ということでは……。


半分読んだと書きましたが、実は一度ひととおり全部目を通したんですね。ところが、何が書いてあるかひどくわかりにくかった。そこで、もう一回初めから、現在半分まで読み直したところなんです。一度ザッと目を通したのと、二回目からはメモをとりながら読んでいるということもあって、一読目とはだいぶ違う印象を持ちました。
何で一読目がそんなに散々なことになったのか。この著者、あまり文系的な書きものに慣れていないように見受けられるんですね。書き慣れない文学的(それともニューアカ的と言うべきか)修辞を不器用に使ってみた結果としての、意味ありげにもっともらしく散りばめられた装飾的な文言の数々に惑わされるから、文意が読み取りにくくなるので、実際にはもっと単純なことが述べられている。再読しての印象はこういうものです。
第四章の冒頭に、文芸評論から見たマンガ評論の話がチラッと出てきますが、ぼくに言わせれば、精神分析脱構築主義のようなアヤシゲなトンデモ理論、あるいは横文字職業ばりにカタカナな政治的批評理論の跋扈する文芸評論界なんかほっておけ、もちろん中には参照すべき議論も多いでしょうけど、だからといって先達の“悪いクセ”までマネる必要があるのか、と。第三章の、何やらラカンデリダ?っぽい筆の進み方に先が思いやられる気がしました。


東浩紀によるモダン/ポストモダンの定式化(p.47、出典は『動物化するポストモダンISBN:4061495755)に対応させて、日常語の「キャラ、キャラクター」を、本書用語での“キャラ”/“キャラクター”(対応は前後逆ですけど)に分節する、というのが第二章から第三章のモチーフですが、今のところ、どうにもうなづきにくいところがある。いや、“キャラ”と“キャラクター”を区別する、というのは、そういう仕方はありうると思うんですが、定義の周辺がひどく曖昧で混乱しているように見える。
pp.102-103で「『NANA』はキャラが弱い」という少女の証言が出てきます。この少女の証言は、ぼくの解釈の中である整合性をもっていますが、それに対して著者のつけるコメントに違和感があるというか、的外れのように思えてしまう。それは、ここで少女の言っている「キャラ」というのは、たとえば「キャラがかぶる」と言われるときの「キャラ」であって、著者の言う“キャラ”とは別物ではないか、という気がしてならないからです。
著者の言う“キャラ”の定義がぼくにはどうにも「人工的」に感じられてなりませんでしたが、それはぼくの邪推するところでは、斎藤宣彦による「絵・コマ・言葉」のトリロジー(p.64、出典は『別冊宝島EX マンガの読み方』ISBN:4796609474)から「“キャラ”・コマ・言葉」のトリロジーへの少々強引な置き換えを成立させるために、なんとか整合性を保たせる必要からその(人工的な)定義が要請されたためではないか。斎藤のモデルに「時間継起性」を採り入れるということ自体はたいへん大事な視点だと思いますが。
もう一つヘンなところを指摘すると、「前(プロト)キャラクター態」ということばの存在意義ですね。

つまり、「キャラ」とは「キャラクター」に先立って、何か「存在感」「生命感」のようなものを感じさせるものと考えられる。「前キャラクター態」とでもいうべきものに位置づけられるのである。(pp.94-95)

後々、“キャラ”が“キャラクター”に先行していたのにその事実が隠蔽されてしまった云々という議論が出てくるから、わざわざそのことを強調しようとしてこういうカッコつけた述語を導入したのかもしれません。が、しかし、“キャラ”や“キャラクター”という語の定義はこうなっているわけです。まずは“キャラ”。

多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの(p.95)

次に“キャラクター”。

「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの(p.97、強調原著者)

この定義を見て明らかなように、“キャラクター”に“キャラ”が先立つ、というのは「定義上」必然なんですね。もう少しコムズカシく言ってみるなら、AとBという二つの概念があったとして、そのそれぞれの内包を詳しく見ていったところ、その要素から、A={a}、B={a+b}であることがわかった、と。この内包から見れば「A=前B態」なんていうのはトートロジーであって冗長なんですよ。その論理的直観に反する歴史的事実の指摘でもあればまた話は違うんですけども。


ほんとは実証を必要とすることなのに「そのことは、経験的には知られている。」(p.104)と一言書いてスルーしてしまったりだとか、せっかく面白い本なのに脇の甘さが非常に目につくところが、どうにもモヤモヤして、一言物申したくなるというかなんというか。
これから本題なのでもうちょっとがんばります。

*1:いろいろかじってはいますけどね……。文中で言及した『動物化するポストモダン』、『マンガの読み方』はもちろん、スーザン=ネイピア『現代日本のアニメ』ISBN:4120033287含めて。