橘玲『朝日ぎらい』

おひさしぶりの読書感想文ですが、前回にひきつづき政治系の本。

この本、タイトルはこんなですが、「朝日新聞を嫌う人」についての本というわけではありません。
(そういう話が書いてあるのかと思って手を出してしまいましたが・・・)

内容を簡単にまとめてみると
「保守であるかリベラルであるか、という各人の政治的立場というものは、実のところ生まれもった素質によってある程度決まっている。素質=遺伝によって決まるということは、それが生物進化の産物であることを意味している。」
道徳心理学や行動遺伝学、政治学・経済学・社会学の研究を引きつつそれを説明しながら、その一方で、今世紀に入って目につくようになった「社会(特に若者)の右傾化」「極右ポピュリズム政党の躍進」「ネトウヨの出現」「安倍一強の政治状況」といった現象を解読する、というもの。

いわゆる「右傾化」って、たとえばこういう話ですよね。

  • 近年の統計では、年齢が若いほど自民党支持率が高くなる傾向が見られる。

でもこれは、字面どおりに「右側に傾いた」という単純な話ではないようです。

  • しかし、政党ごとに各党が保守とリベラルのどちらと思うかを聞いてみると、若年層は(高齢層と異なり)自民党や維新の会は「リベラル」(!)で公明党が「保守」、その他の政党はのきなみ「中道」と判断していることがわかった。
  • このことから、今も昔も、若者がリベラルを支持する傾向にあること自体は実は変わっておらず、変わったのは政党に対する評価であることがわかる。

ではなぜ評価が若者と高齢層とでひっくり返ってしまったのか。
ポイントは2つです。まず一つは「リベラルの保守化」。

  • その昔の「リベラル」は、それを支持する層と一緒に高齢化した。
  • 今でも(当時の)「リベラル」はその支持層である「高齢者」たちの生活保障を推進する政策を掲げているが、その政策は「若者」の生活保障とトレードオフの関係にあり利害が対立してしまう。
  • そのため(旧来の)「リベラル」は、若者の目から見て、“権力者”たちの既得権益を守ることに躍起になる「保守」派と映るようになってしまった。

二つめはもちろん、「保守のリベラル化」。

  • その逆に「保守」派であるはずの与党は、政権を維持するために国内と国外の双方から広く支持を集める必要がある。
  • 国内の高齢層の多数派である保守派に対しては、従来どおり「保守」の態度を見せて支持を得ればいい。
  • 国内の若年層の多数派であるリベラル派に対しては、旧来の既得権益の破壊者〜「リベラル」(旧「リベラル」派から「ネオリベ」と呼ばれ忌み嫌われている)の態度を見せて支持を得る。
  • ぼくたちは外国の自国第一主義者・民族主義者=「右翼」に対してあまり寛容的ではありません。逆に言えば、国外から支持を得るには、外国に対して左派=「リベラル」の態度を見せる必要がある、ということです。
  • 結果として与党は、与党に留まり続ける限り「リベラル」な態度=政策を合わせもたざるをえない。

だから第一章の見出しはこうなっているのです── 「安倍政権はリベラル」である、と。
これが「右傾化」と呼ばれるものの実態であり「安倍一強」の理由だ、というわけです。

実際、これは本書の中でも触れられていますが、世の中のリベラル化(?)はどんどん進んでおり、今どきの「保守」層はひと昔前の「リベラル」層よりリベラルです。「文春砲」をはじめとした“道徳自警団”の動きも活発ですし、消防車や救急車がお昼やコンビニに寄っただけでクレームを受けたりと、昔は問題視されなかったようなことが問題化され社会的リンチを受ける様を目にすることは日常化すらしています。
だからこそ、そのリベラル化の進展に息苦しさを覚えるようになった人たちが声をあげ始めた結果、「反リベラルの声が聞こえる=右傾化した」と短絡的にとらえられたという側面は、たしかにあるのでしょう。
このことは、事実としては昔よりめっきり犯罪が減ったにも関わらず、だからこそ窓枠のホコリにうるさい誰かさんのように少しの犯罪にも神経質になって「昔より治安が悪くなった」と思う人が増えたという逆説とよく似ています。

薄くて小さい新書ですし、著者も専門の研究者というわけではないので、細かい議論のアラはたしかにありますが、それでも「なるほど」と思えるスジの通り方、スジのよさのうかがえる議論だとぼくは思いました。*1


今の話の中に見え隠れしていますが、著者は「旧来のリベラル」に対して批判的です。
著者自身の政治的立場は本書のあとがきに次のようにまとめられています。

本書を最後までお読みいただいた方はおわかりだと思うが、私の政治的立場は「リベラル」だ。「普遍的人権」という近代の虚構を最大限尊重し、いわれなき差別のない自由な社会が理想だと思っている。
(中略)
社会政策はゲーム理論ビッグデータを駆使して「証拠に基づいて」決定し、功利主義的に社会を最適設計すればいいと考えており、シリコンバレーの「サイバーリバタリアン(右派)」に近い。「国家は国民が幸福になるための道具だ」と思っているから、右翼・保守派(ナショナリスト)とはまったく話が合わないだろう。
だがそれ以上に、日本で「リベラル」を自称するひととはそりが合わない。それは彼らの主張が間違っているからであり、そのきれいごとがうさん臭いからでもある。──少なくとも私は、自分のうさん臭さを自覚している。
(pp.247-248)

この最後のところなのですが、要するに「リベラル」には(著者の信じるところの)“まっとうな”リベラル(い)と、朝日新聞に代表される旧来の“おかしな”リベラル(ろ)があって、前世紀末から目立つようになった右派による「朝日叩き」は、自分は立場が違うけどそこには一理も二理もあるんだよ、というところからこのような書名になっているようです。
そういう意図があったか知りませんが、「朝日ぎらい」のぼくはこの書名に釣られてまんまと手にとらされてしまいました。結果、読んでよかったと思います。

ぼく自身の立場は以前から何度も書いているように、右でも左でもありません。
朝日新聞が嫌いなのは単なる私怨であって、朝日的(旧来の)「リベラル」が嫌いだからというわけでなく。そこまで明確な政治的主張も立場も持ち合わせてはいませんし。


「言ってることは一応スジが通っているようには聞こえるんだけど、でもそう言ったってなあ・・・」

「リベラル」派の議論に接してぼくが思うのはいつもこれ。
何事にも理性・理屈・理想を優先させ、それ以外のもろもろ(感性や感情、物理的制約、生物学的事実、現実のしがらみ、財源等々)が過小評価される印象があります。*2
本書の中で「生まれつきIQの高い人はリベラルになりやすい」という研究結果の話が出てきますが、むしろ逆に、リベラルというものがこのような性質のものであるからこそ、IQが高くて感情を抑制できる人でなければそもそもリベラルなんかなりようがないという話では、とも思いました。

これは例え話ですが・・・

ヘビを気持ち悪いと恐れるのは生得的な感情だ。(中略)ヒトだけでなくチンパンジーの子どもも同じようにヘビを恐れることがわかっている。(後略)
ところでここで、「イヌやネコをかわいがってヘビを嫌うのはヘビに対する差別だ」と主張するヘビ愛好家が現れたとしよう。彼らは、すべての生き物は生まれながらにして平等なのだから、長くてにょろにょろ動くというだけで、毒をもたない“善良な”ヘビまで嫌うのは「生き物権」の侵害だという。
(中略)
しつけや教育によってヘビへの気持ち悪さがなくなるのなら、これでなんの問題もない。しかし困ったことに、ヘビへの嫌悪感は遺伝子に埋め込まれたプログラムなので、どれほど教育されても気持ち悪い感じは消えない。ところがヘビの権利を擁護する社会ではその嫌悪感は口に出してはならないと抑圧され、さもなくば「差別主義者」のレッテルを貼られて社会的に葬り去られてしまうのだ。
(pp.174-175)

みなさん「お肉」がお好きかと思うんですが、菜食主義過激派に言わせれば、罪のない動物たちを非道にも殺して貪る野蛮で「非人道的」(?)な行為だ、ということになっています。*3
イケメンだの美人だの「かわいい」だのと、ぼくたちはしょっちゅうひとの容姿を評価していますが、これだって、そうでない人に対する差別だと言われれば、反論のしようもありません。そういえば、「親友を作ってはいけない」なんて校則のある小学校の話もありましたね。
差別はいけないことだ、というのは一般論としてはそのとおりで、それを頭では理解しているつもりなのですが、「それじゃあ差別はしないんだね。絶対に」と念を押されると、う、う〜ん・・・ とぼくなどは口ごもってしまいます。
「差別」の問題は、理屈の上では正しいと思われることでも、認められるかといえば必ずしも、となってしまう一例なのでしょう。そしてそのことは、巷間取り沙汰されるさまざまな「道徳的主張」の多くに当てはまる、とぼくは思っています。*4

だからぼくは、声高に「これが絶対正義だ」みたいなことを言う人とその主張を信用できません。
ISもオウム真理教も自らの正義を奉じてそれに従わない人々を殺しました。過去の歴史の現実をかえりみれば、「正義の味方」というものは実際のところ、純真な子どもたちの理想とは異なり、「極悪人」とニアリーイコールの存在なんだと思っています。
昔は「非国民」とか「反キリスト」「魔女」といったことば、現在では「差別主義者」、あるいは「犯罪者」「不謹慎」「人権侵害」「非人道的」といったことばもそうだと思いますが、このような“道徳的侮蔑語”は「自分が絶対の正義の側に立っている」と思っているのでないと言えない類のものでしょう。「地獄への道」に迷い込まないよう、自戒を心がけたいと思います。*5


最後にいくつか本の紹介。
(旧来の)「リベラル」の言っていることがおかしい、ということを、「リベラル」の人が言っている本。
ぼくはこちらの主張のほうがスジが通っていると思いました。

それと、今回紹介した『朝日ぎらい』は朝日新聞出版から出ていて、自社の不利になるような本を出版して偉いなあと思ったのですが、同様に朝日新聞の人を見直したのがこちら。著者は朝日新聞のソウル支局長を務められています。

ルポ 絶望の韓国 (文春新書)

ルポ 絶望の韓国 (文春新書)

さすがにこんな内容だから朝日でなく文春から出したんですかね。
朝日って、自国の悪いところはさんざん叩くくせに他国の悪いところには積極的に目をつぶるイメージがあるんですが(偏見だったらごめんなさい)、こんな赤裸々に書いちゃって大丈夫か心配になりました。
この著者、少なくとも北の某国には目をつけられてしまったようですが・・・

*1:本書の中で参考文献として挙げられた本にはぼくが読んだことのあるものも多く、そもそも考え方のベースになっているものが近いから言っていることが「ああ、あの話ね」と呑み込みやすかったのだとも思います。

*2:感情の問題を、理屈を押し通してないがしろにしてよいわけじゃないのでは、という疑問は、以前こちらの記事に書きました。→『Fate/Zero』と道徳的直観 - hideo's hideout. この記事の最後のほうで言ってるのもそういうことです。→宗教的な、あまりに宗教的な - hideo's hideout.
「善(良)・悪」の判断というものはそもそもぼくたちが本能的・直観的にもつ「好き・嫌い」の感覚を基盤として成り立ったものなので、そこから理性的な判断のみ残したまま感情を消去しようとしたってそうそうできるものではないし、仮にできたとしてその理屈は“骨抜き”になるのじゃないか、という思いもあります。

*3:だったらなぜ植物は殺していいのか、というのは当然ありえる疑問ですが、「痛みを感じるから動物はダメ。植物はOK」とか何とかいろいろ理由があるということのようです。どう見てもこれ、ぼくたちが肉食を是とする理由をあれこれ述べて“言い逃れ”するのと同じようなコジツケにしか見えないのですが。
結局のところぼくらはそれぞれが「自分に都合のよい」ほうを選択し、それだけだとカッコがつかないから正当化のための理屈をひねり出そうとしているに過ぎないのだ、ということがこのことからもわかります。
草食動物と雑食動物のあいだに存在する溝は埋めようもありませんが、同じ一票をもっていることから「社会として」どちらかに決まってしまうのが“政治”だ、ということだけお忘れなきよう。
スイスで「エビを生きたまま料理してはならない」という法律が施行されたことがニュースになりましたが、わが国でも「料理や食事の前には両手を合わせて『いただきます』と言わなければならない」なんて法律ができたっておかしくなさそうです。右も左も反対しないでしょうし。法律に道徳の徳目をリストアップすることがよいのかどうか、という話はありますが・・・
「いただきます」については、日本人論になりますが以前こんな記事を書きました。→「いただきます」って言ってますか? - hideo's hideout. (日本語についての記事なのにときどき日本語がヘンですみません。はてなダイアリーからはてなブログに移行した際、記事の内容が一部壊れてしまったようで)

*4:ここに見られるような独善と選民意識は、なにも「リベラル」派の専売特許というわけではありません。
日本の“一地方”に過ぎない京都か江戸に住む、ごく“ひとにぎり”の上流階級である公家や武家の風習や方言を「日本古来の美しい伝統文化」だの「正しい日本語」だのと呼んで褒めそやし、それに当てはまらないその他「大多数の日本」を軽視するのは「保守」派のお家芸ですよね。

*5:なんだかどこかで同じ話をしたような・・・ と思ったら、過去記事にありました(^^;「正義」という快楽(1) - hideo's hideout.「正義」という快楽(2) - hideo's hideout.