マトモな哲学のすすめ(8)

この記事はもともと読書感想文として書き始めたのですが、書いてみたら内容的につながってしまったので、タイトルを変えてこのシリーズに含めてしまいました。
「マトモな哲学のすすめ」は初心者向けに書いてるつもりなので、ややこしくなりそうな話はなるべく避けてるのですが(^^; この記事が説明不足に感じられたら、もともとシリーズ記事ではなかったためと思われます。何卒ご理解いただきますよう…<(_ _)>



これから書こうとしていることは次の記事のつづきに当たります。

(6)では、科学哲学は「科学を哲学する」と言いながら、科学と哲学では進歩のスピードに差がありすぎて、ついてこれてないのでは、というのが主なモチーフでした。
今回は、これは(7)ともかぶるのですが、そのような進歩がこの頃になって「哲学を科学する」ことを可能にし始めた、というお話です。


読んだのはこちらの本。

記号創発ロボティクス 知能のメカニズム入門 (講談社選書メチエ)

記号創発ロボティクス 知能のメカニズム入門 (講談社選書メチエ)


本書はまず第一にロボット工学と人工知能についての本ですが、「ロボットが実世界との関わりを通して概念を獲得していく」というそのモチーフから、同時に心理学、言語学、そして、哲学の書でもあります。
本書に「哲学」を批判している箇所がありますので以下に引用してみます。

前節では物体概念というものを人間が経験から形成することを当然のことのように話してきたが「概念形成は不可能だ」と主張する学者もいた。哲学者の廣松渉などは、論理的な思考実験によって経験に基づく概念形成の不可能性を指摘した。「抽象」という手続きによる「概念」形成ということは論理的に見て成立しえないというのだ。これはどういうことだろうか。
(中略)



人は、<犬>という概念を形成しようと試みるさい、自家の飼犬ポチ、隣家の飼犬ジョン、……等々の個体群を“集め”ることであろう。が、ミケ、タマ、等々の個体は初めから除外してかかる。ましてや、<犬>という概念を抽象しようという今の場合、机とか石とか、木とか草とか、……こういった多数のものどもは与件群に入れられない。
(中略)
ポチ、ジョン……を集め、ミケ、タマ、机、石……等を除外するさいの、判別基準は何か? まさに<犬>という概念、つまり、今から形成すべき概念を事前に知っているということにならないか? もし、そうなら、なにもいまさら、<犬>という概念を抽象などという手続で形成する必要もあるまいではないか!


(中略)
「なるほど」と思い「では、なぜ人間には概念があるのか」と哲学的問いに頭を悩ませだす人も居るだろう。廣松は抽象による概念形成にはすでに矛盾が含まれているということを「論理的」に指摘しているのだ。
このような決定論的な「論理」を用いて議論されてきた哲学的問題は多い。他の例を挙げることはしないが、これらには、事象の曖昧さを許さない、決定論的な論理を用いることによる誤謬が多く潜んでいると私は考えている。先の説明も「論理的で、まことしやかな説明」であると思われるが、この説明が「まことしやか」に聞こえてしまうあたりに、決定論的な論理のみを扱いうる「自然言語」での哲学的議論の限界を感じざるを得ない。
ニ五年ほど昔に書かれた書籍であるが、現在から考えると、この議論の間違いは明確に指摘可能である。彼の問題は「犬っぽいもの」という曖昧で確率を含んだような議論を含められなかった点にある。私たちの認識は常に「これが犬である」「これは犬でない」のような確定的な認識状態にあるわけではない。その過渡状態を変遷する不確かなものである。この「不確かで動的な認知状態」を「明確」に記述する議論の土台が必要である。それが決定論的な議論を超える「確率論的な議論」であり、自然言語を超える「計算論的な表現」というわけである。(pp.54-57)

「他の例を挙げることはしない」とありますが、いくつかすぐに思いつきました。一番有名なのはもちろん「鶏が先か卵が先か」でしょう。

他にも、「はげ頭論法」と呼ばれるような話とか。毛が0本の人はもちろんはげ、1本増えたからってはげははげ、2本もはげ、3本もはげ、…どこまでがはげでどこからがはげでないかわからない以上、すべての人ははげ、という。

「富士山と八ヶ岳は地続きであり、どこまでが富士山でどこからが八ヶ岳かを明確に線引きできないので、区別できない」という言い方なんかも同じ話。常識的に考えたとき「境界例のあること」は区別できないことの証拠にならないと思いたいところですが、理屈の上でこれに反論するのは至難の業だったりします。
ほんとにこんなこと言うやつなんかいない、と思われますか? ポール・ファイヤアーベントの「Anything goes.」(なんでもあり)はこの種の発言だとぼくは思っています。哲学や思想における相対主義的な議論や反実在論の多くは、実のところこの仲間だとも思いますし。すべてがそうだとは言いませんよ! …すべては知りませんから(^^;
気になるのは、これらの問題はいずれも純論理的な問題ではなく、実際に起きたことだったり現実的に答えは「こう」と決まっていたりするのに、その直観をリクツ上否定しようとする“哲学者”の態度、というところでしょうか。*1


ちょっと脇道にそれますがこんな話も。

このように、物質の特性や論理における整合性を重視する物理学や哲学においては、時間の存在さえも疑われることがある。(中略)こうした「いま」や時間の進行といった事柄は、物理的時間や時間に関する概念の中には存在していないか、あるいは、必ずしも明示的ではないようなのだ。
物理的な時間や哲学的な時間以外にも、多くの現代人が「客観的時間」というものを想定している。これは、時計の針が刻む「公共の時間」、いわば「時計の時間」である。この時計の時間は、常に一定の早さで過去から未来に向かって一方向的に進行し、それぞれの瞬間を正確に特定できるものとして考えられていて、時間についての私たちの直観的理解ともよく対応している。
この時計の時間は、物理学や哲学における時間の概念以上に、私たちの生活に非常に大きな影響を及ぼしている。たとえ物理学や哲学が時間は実在しないと主張したとしても、私たちの生活が時計の時間から解放されることはこれまでなかったし、これからもないだろう。
(一川誠、『大人の時間はなぜ短いのか』asin:408720460X pp.22-23)

物理学者や哲学者の中には「物理学的には『時間』というものは実在しない」「哲学的には(以下略」といったことを主張する人もいます。ぼくは専門家ではないので正確なところまではわかりませんが、もしかすると物理学的・哲学的には、本当に「時間」というものは“ない”、ということになるのかもしれません。
でも、ですよ? 「我が社の始業時間は朝8時40分だ」とか「今度の土曜の午後2時、渋谷のハチ公口で待ち合わせだからね」とかいった社会的なやりとりが、この一事をもって“無意味”になるということが、現実にありえるでしょうか?
ふつうに考えれば、「物理学的あるいは哲学的に定義された<時間>と、ぼくたちが使っている『時間』は、同じことばを使っているようでも、意味(=指しているもの)が違うんだね」と思われて、「So what ?」と言われておしまいでしょう。
相対主義反実在論に対して一介の凡夫たるわれわれがとる態度も、それと同じだと思うんですよ。かっこよさげなこと言ってるみたいだけど、「だから何?」と。いま君が見ている時計は、論理的には「実在する」とは言えない。だから、何?*2


閑話休題
本書の中で自分的に一番驚いたのは「ベイズ教師なし形態素解析」の話です。元の論文はこちらで読めます。

論文なので数式やアルゴリズムなど専門的な議論がえんえん続いてようわからん、と思われるかもしれませんが、見ていただきたいのはここです。本書でも引かれている、最後のほうの「図12: “Alice in Wonderland”の単語分割」。

lastly,shepicturedtoherselfhowthissamel
ittlesisterofherswould,intheafter-time,
beherselfagrownwoman;andhowshewouldkeep,
throughallherriperyears,thesimpleandlov
ingheartofherchildhood:andhowshewouldga
theraboutherotherlittlechildren,andmake
theireyesbrightandeagerwithmanyastrange
tale,perhapsevenwiththedreamofwonderlan
doflongago:andhowshewouldfeelwithallthe
irsimplesorrows,andfindapleasureinallth
eirsimplejoys,rememberingherownchild-li
fe,andthehappysummerdays.

不思議の国のアリス』の一節を取り出し、このように単語間の余白や大文字小文字の区別を全部省いた一連の文字列をつくり*3、これをプログラムに読ませて「学習」させます。
このプログラムは単語や文法についての知識を一切持っておらず(教師なし)、単に「文字列のひとまとまりらしきところで区切る」(形態素解析)よう指示されているだけなのですが、その結果が以下。

last ly , she pictured to herself how this same little sister of her s would , inthe after - time , be herself agrown woman ; and how she would keep , through allher ripery ears , the simple and loving heart of her child hood : and how she would gather about her other little children ,and make theireyes bright and eager with many a strange tale , perhaps even with the dream of wonderland of longago : and how she would feel with all their simple sorrow s , and find a pleasure in all their simple joys , remember ing her own child - life , and thehappy summerday s .

すごくいい線いってると思いませんか? 単語や文法を知らないはずなのに、単語らしいところできちんと分かれている。つまり「単語」を認識できた、ということです。*4
何をやっているかは論文を読んでいただいて… と言ってもわからないかもしれませんので(^^; ごく簡単に説明すると。
与えられた文字列を適当に切って“単語”を作ってみて、そのような単語の区切り方が全体的に「よく当てはまる」かどうかを確率的にポイント化します。その切り方をいろいろ変えてみて同様のことを繰り返し、一番ポイントの高い切り方を選ぶ、というものです。漠っとしてますか? 厳密なことを理解したければ、やはり原論文を…(^^;
で、なぜそのようなかたちで、事前に単語の知識をもっているわけでもないのに単語を認識できるようになるのか、と言うと、前者のスキマのない文字列の中に“実は”単語を識別するための「ヒント」が埋め込まれているから、ということになるわけです。もう一つ付け加えれば、プログラムは単語の知識そのものは持っていないものの、「文字列(文章)が単語に区切れる」という知識自体は持っているから、ということでもあります。*5


言語哲学発達心理学について多少知識のある方であれば、クワインの「ギャヴァガイ(Gavagai)」をご存知かと思いますが。
言葉が通じない民族の人と一緒に歩いていたらウサギが草むらから飛び出してきた。そのとき同行者は「ギャヴァガイ!」と叫んだのですが、この言葉はいったい何を意味しているのか。ウサギのことなのか、飛び出してきたことなのか、草むらを指しているのか、全然わかりません。
でも、人間の赤ちゃんが、生まれてからどうやって言葉を覚えるのか、考えてみてください。赤ちゃんにとって周りで話されている言葉は、すべてこのギャヴァガイと同じことではないのか。
本書では、何も知らないはずのロボット/人工知能が、与えられた文章、目にした光景、触れたときの手触りなどのデータ*6 を元にして、単語や概念を認識していく筋道が描かれている。これは、ギャヴァガイ問題に対して「こういう条件があれば、このようにすれば、できるよ」と工学的に解答を与えたものと受け取ることができます。
廣松渉の<犬>についても、ヴィトゲンシュタインが「家族的類似」とボンヤリ述べただけで哲学上はそれ以上の進展があまりなかったわけですが、「概念」というものが何ものであるのか、数式やアルゴリズムのかたちで「こういうふうに考えられないかな」と工学的に示唆しています。


この調子で、「サピア・ウォーフ説」がどこまで正しいのか検証してみるのも面白いかもしれません。
「虹の色の数」をどう数えるか。日本では七色(なないろ)、英米では6色と数えているのはよく知られていることでしょう。Wikipediaの次の項目にも記述がありますが、極端なところでは「明暗」の2色、という地域もあるようです。

サピア・ウォーフ説は簡単にいえば「認識は言語に影響される」というものなのですが、このことから、日本人には虹が「実際に7色に見え」、アメリカ人には「6色に見え」ている、と結論します。Wikipediaには「虹の色が何色に見えるのかは、科学の問題ではなく、文化の問題である。何色に見えるかではなく、何色と見るかということである。」とさらっと書いてありますが、否、これは本当に「何色に見えるか」に関わるんだ、というのがこの仮説の考え方です。
ところで、この仮説には大きく分けて、「言語はその話者の認識に(大なり小なり)影響を及ぼす」という“弱い主張”と、「言語はその話者の認識を決定する(拘束する)」という“強い主張”の二つの立場があります。これを踏まえると、それが成り立たないとする否定的な立場を0、タカ派の強い主張を1として、その間にハト派の弱い主張がある、という構図になっていると考えられますが、記号創発ロボティクスを利用してその“値”を実際に見積もることができるのでは、と思ったわけです。
『「知」の欺瞞』の中にも同様の話が出てきますが、ぼくはこのような主張に対して「0」と言うのも「1」と言うのもどちらも極端で実情と合っていないと感じています。従来の理論水準では、0か1かそれ以外か、という大雑把な言い方しかできなかったわけですが、本書で紹介された方法を応用することでこの種の議論を精緻化することができるのではないか。白黒つけてみたら灰色になりました、みたいな…(^^;


パースは『我々の観念を明晰にする方法』を追求することで哲学運動としての「プラグマティズム」を旗揚げすることになったわけですが、これって正に「観念を明晰にする方法」なんではないの、と。またヴィトゲンシュタインの言う「治療」の現代版、と考えることもできるのではないでしょうか。
現代哲学はもやもやアイマイな議論を続けているところから“カガク的”な論理実証主義が登場し、それを批判するかたちで穏健な日常言語学派が出てきて、…というかたちで進歩してきました。心理学でも同様に、もやもやの中から“カガク的”な行動主義心理学が、その後に穏健な認知心理学が生まれました。言語学での普遍文法から認知言語学への流れもそれに類するものです。そのような「思考の革命」の、新たな段階がこの計算論的な見方によってもたらされる(た)のではないか。
思えば、論理的かつ抽象的な<言語>を駆使する思弁科学の代表格であり代名詞たる数学において、「四色問題」(どんな白地図も、境を接する国の色を違えて塗り分けるために最低限必要な色の数は四色である、とする定理)を解決に導いたのも計算論的方法でした。*7

複雑なものを複雑なまま扱おうと志向するという点で、これは物理学におけるニュートン力学から量子力学への発展に並ぶ発想・方法論の転換と言えるのかもしれません。
哲学・思想業界では、その業界のパラダイムシフトについて「なんとか的転回」という呼び方をすることがあり、たとえばリチャード・ローティが有名な「言語論的転回」を言い出したのはもう半世紀近く前のことですが。そろそろ、「認知論的転回」あるいは「計算論的転回」なんてことが言われてもいい頃合いなのではないか …と思ったらすでに言っている人がいたようです、失礼しました(^^;*8

*1:ここでの議論を踏まえると、前回(7)で「検算」について述べたことにはやや修正が必要となるようです。
(ある種の)ポストモダン思想家の言説のように「何を言っているのかよくわからない」議論の内実を検討し、それが端的に「無意味」であることをハッキリさせるために「検算」は必要でした。一方で(一部の)相対主義者は、どっちつかずの境界例や極端な例に対し議論がうまく当てはまらないことをもってその議論が「成り立たないこと」を結論し、そのような営為の繰り返しの結果、どのような積極的な議論も成り立ちえないとする極論に走ります。これが「検算」の悪用あるいは濫用であることは明らかではないでしょうか。

*2:相対主義に対する常套的な反論はそれが自己論駁的であること、つまり「すべての真理は絶対的に正しいわけではない、ならば、『すべての真理は絶対的に正しいわけではない』という<真理>もまた絶対的に正しいわけではないのではないか?」というものなのですが。
実は何よりも自身こそが「絶対的に正しいもの」を求めるあまり、提案されるさまざまな学説のいずれも“それ”に値しないと否定を繰り返した結果、相対主義なり反実在論なりといった立場に追いやられているのではないか。ぼくはどうにもそんな逆説の存在をここに感じとらずにはいられません。(6)で引いた須藤・伊勢田の話の内容もそういうことだったと思いますし。

*3:そのまま貼り付けるとこの記事のレイアウトが崩れたので、40文字ごとに改行を入れました。

*4:中国語の部屋」等の議論を下敷きに「それでもこのプログラムは『単語を知っている』とは言えない」と言いたくなる向きもあるかもしれません。著者の言い方を借りれば、「すみません、あなたの言う『単語を知っている』って何ですか?どういうロボットができたら『単語を知っている』ことになるんですか?」と、ぼくが返す言葉はこんな感じになるでしょうか。
そもそもぼくは、自己紹介にも書いてるようにプラグマティストですので、どのような「言い方」をしようと実質の変わらない議論は「意味的に同じ」と捉えてそれ以上深入りするつもりはありません。

*5:前者(区切りのヒント)はジェームズ・ギブソンの言う「アフォーダンス」であり、後者(区切りの知識)はカントの「カテゴリー」と考えることができそうです。
また、「何もないところからこれほどの言語知識の獲得は不可能だ」ということでチョムスキーは、それを「学習」だけで説明しようとしたスキナーやピアジェを“やっつけた”あるいは“片付けた”ことになっていますが、学習(経験)一元論が誤りで(もちろん誤りだと思いますが)、言語ゲームに何らかの先天的かつ普遍的なルールの存在を仮定すべきだとしても、普遍文法ほどのハードな仕掛けを想定せずともある程度の説明が可能であることをこの論文は示していると思われます。

*6:センスデータ、と言ったほうが哲学っぽいですかね。

*7:ムーアの法則に従ったかに見えるコンピュータの計算力の爆発的成長は、自然科学や金融経済学における大規模シミュレーション、コンピュータグラフィックスやシンセサイザーの表現力の進化等さまざまな分野に革命的な進歩をもたらしましたが、哲学もその例に漏れなかったということになるのでは、と。

*8:「Cognitive Turn」「Computational Turn」とそれぞれ呼ばれています。ググってみたら出てきました。