ニコニコらしさって?(2)

どんな動画が流行るのか

印象論から抜け出すためにはやっぱり事実、やっぱりデータですよね。動画の投稿数や再生数の実態を調べてみた方がいらっしゃるので、その結果を見てみましょう。



再生数が1000もいけば実は勝ち組で、再生数の少ない動画ほど削除されやすく、過去の動画ほど再生数の累積や不人気動画の削除によって平均再生数は多くなる、そして動画投稿のペースは昔からあまり変わっていない。といったことがこれらを見るとわかります。
「昔は動画も少なくてユーザーの団結力がすごかったんだよな」というコメントがありますね。この話についてはまた後ほど触れたいと思います。


次に、こちらもまた参考になります。ニコニコ動画マーケティングの人。



投稿される動画の数が多すぎて見きれないので、いい動画が必ず評価されるとは限らない。
これは本などについてもよく言われる話で、「ベストセラーはベストセラーである。それ以上でもそれ以下でもない」と。いい本が必ず売れるわけではないし、売れた本が必ずいい本というわけでもない。もちろん、価値観は人それぞれというところがありますが、「ベストセラー」とか「ランクイン」とかいった突出した結果については、大数の法則的にささいな個別的事情は捨象され、その裏側のもっと大きな仕掛けが顔をのぞかせるものです。

どんな動画が流行っていたか

ここで、現に「どんな動画が流行っていたのか」を押さえてみたいと思います。



通しで見ると、2010年10月〜11月の「エルシャダイ」旋風が目につきますね(^^; 2010年は昔と言えるほど昔じゃないと思いますので、こう見ると「昔のほうが流行が長続きする」というわけでもないような気もします。
ただ、これは「1位」だけ見ているので“特別な”ものばかりが目に入ってくるのかもしれません。


そういうわけで次に見るのは、ワカメさん(タイガー道場の人)のマイリスト。




言われてみれば、ああ、そういえば、というものが多いように思います。
「流行り」というとVOCALOIDや歌ってみたが強そうな印象がありますが、上位5位の中には2010年の5位に「マトリョシカ」が入っているのみ、10位まで広げてもういくつか出てくる、という感じで、実はそこまで偏っているわけではありません。むしろこの結果だけで言えば、流行はアニメやゲームに偏っているように見えます。
というわけでその裏取りのため、月刊カテランのバックナンバーをば。



カテゴリ自体のランキングを見てみましょう。上位10位までを取り上げます。すると…


2007年10月

1位 アニメ 31 M pts
2位 音楽 22 M pts
3位 ゲーム 22 M pts
4位 歌ってみた 11 M pts
5位 エンターテイメント 11 M pts
6位 演奏してみた 10 M pts
7位 その他 7 M pts
8位 R-18 7 M pts
9位 踊ってみた 5 M pts
10位 スポーツ 5 M pts


2012年10月

1位 アニメ 39 M pts
2位 ゲーム 35 M pts
3位 歌ってみた 27 M pts
4位 VOCALOID 21 M pts
5位 エンターテイメント 14 M pts
6位 音楽 12 M pts
7位 東方 9 M pts
8位 動物 8 M pts
9位 スポーツ 8 M pts
10位 例のアレ 7 M pts


今と昔とではカテゴリ分けが異なっており、昔はVOCALOIDは「音楽」に含まれていました。*1 今のカテゴリで考えたときに、ボカロと音楽のポイント比がおよそ2:1ぐらいなので、この割合を当てはめてみると、2007年10月当時のボカロカテゴリのポイントは15Mptsぐらいと見積もることができます。
アニメ⇔ゲーム、ボカロ⇔歌ってみたの順位の入れ替わりは今でもよくあることで、これはカテランを見ているとわかることですが、1位・2位はアニメ・ゲーム、3位・4位はボカロ・歌ってみた、という構成は昔から何も変わりがありません。ポイントが1位〜4位については全カテゴリについて約10Mpts上乗せになっているところが、あえて言えばの今と昔の違いというところでしょうか。


先に見たように、ニコニコ全体としては動画投稿数のペースは変わっておらず、登録ユーザー数はむしろ増えていますが、その話とこの結果を合わせてみると、ごく一部の人気カテゴリへの視聴者の集中が進んでいる、ということになると思われます。
生態学や文化論の関係では「多様性(diversity)」の確保ということが「豊かさ」の指標としてよく持ちだされますが、その観点からすると今のニコニコは「貧しくなった」ということになる気がします。その意味で、トップ画面やランキングの表示上の工夫とか、アワードの活用といったことがもっと考えられてもいいのかな、と思いました。「大会議」から「超会議」への変化の眼目はまさにそこにあったと思いますので、運営のみなさんの今後に期待したいところです。


ここで振り返っておきたいのが、先ほど気に留めた、こちらのコメントです。

「昔は動画も少なくてユーザーの団結力がすごかったんだよな」

このコメントはある意味で現状を的確に言い当てていると、ぼくには思われました。
ニコニコ動画マーケティングの人だって述べています。「ニコ動には動画が沢山ある」と。

「粗製濫造」の社会心理学

たとえば、その動画サイトに1つの動画しかなかったとします。1つしかないんだから、その動画が「最高」になりますよね? 語義の上では。これが10個になったとしましょう。1つ5分の動画だったとして、全部見るのに50分。この程度ならまだ余裕で見ることができ、自分の中でランキングも可能です。
では100個になったらどうか。ちょっと苦しくなってきます。まず500分視聴に時間を確保するのが骨折りです。それに、これぐらいの数になってくると、オレオレランキングの中でも「甲乙つけがたい」と思われることが出てくるようになります。
さらに1000個になったら?そして1万を超えたら? ……もう、把握することなど到底できません。そもそも今のニコニコは、1分間に1分を超える再生長の動画が投稿されつづけているので、一生かけても見切ることができないことは原理的に確定しています。全部見るのは不可能なので諦めるしかなく、いきおいぼくたちが目にするのは、「ひとに勧められた動画」「人気のある動画」に偏りがちとなります。


作品の数が増えると必ず誰かがする指摘があります。「粗製濫造」が起きている、と。
アニメ、マンガ、ゲーム、ポップス、とあらゆることについて、これまでさんざん同じことが言われてきました。同じことが何度となく指摘されつづけるからには、そこには何らかの理由があるはずです。このことについて考えてみましょう。


「百」は数えられるレベルでたくさんあること
「千」は数えられなくなったレベルでたくさんあること
「万」はたくさんありすぎて「すべて」としか言いようがないこと


数を表すことばの「語感」はおおよそそんな感じになっていて、たくさんの野菜を扱うから「八百屋」と言うのであり、「千切れた」ものはもう数えられるレベルを超えていて、もろもろすべてをカバーするから「万屋」とか「万遍なく」とか「万国」と言うんですね。
地蔵の数が「千地蔵」でも「万地蔵」でもないのは、それだと多すぎてありがたみがなくなるからですし、『千の風になって』が「百の風になって」でも「万の風になって」でもないのも、百だと一本一本数えられそうなのでぼくたちの語感に合わないからです。*2
なんというか、「1、2、3、…たくさん」が思い起こされるような話ですが、このことはたいへん重要なあることを示唆しています。ぼくたちは「数が多い」「数が増える」というただそれだけのことで、ものごとについての認識レベルというか、もっと言えば「意味」「価値」の認識が変わるのです。


ちょっと脱線するようですが、ドラクエの武器で「ひのきのぼう」とか「こんぼう」とかいった、ゲーム内での価値もあまりない初期装備について、しかしぼくはかなりの愛着を感じています。一方、FFの武器はものによって習得できるアビリティが違うので、いろいろな装備をとっかえひっかえしますが、その分だけ個々の武器を装備している平均時間は短くなり、関わりは薄くなります。
親しみを感じる武器とそうでない武器。親しみを感じる人とそうでない人。そして、親しみを感じる作品とそうでない作品。
どちらを高く評価するか?と言えば、それ以外の点がまったく同じであれば明らかに「親しみを感じる」ほうですし、実際のところ、多少他の要素が劣っていたとしても親しみを感じるほうをぼくたちは“ひいき”するものです。それだけ長い間、自分の人生の限られた時間を割り当ててきたわけですから。


また、それだけではありません。
「とっかえひっかえ」が可能であるという事実は、それに“希少価値”がない、“ありがたみ”がないということを意味します。同じ人でも、ある人から見れば「憧れの人」だったり「高嶺の花」だったりするものが、別のある人から見れば「数多くいる恋人候補の一人」に過ぎないかもしれません。
それが「あたりまえ」になってしまうと、モノは変わらないのにぼくたちの側の「モノを見る目」が厳しくなるため、評価が辛くなります。FF7のグラフィックに「すばらしい」と感動していた人も、時を経るとバイオ6のグラフィックにすら満足しなくなっていくものなのです。


そしてもう一点当たり前のことを指摘するようですが、たとえば100m走のタイムを比べるというとき、同じように10秒台で走るのであっても、周囲が11秒台ばかりであればその人は「一番速かった」ことになりますし、逆に9秒台ばかりだったとしたらその人は「一番遅かった」ことになります。
ある分野について参加者が増えれば増えるほど「裾野が広がる」ため、同じように「上位一割」といっても、そのレベルには差が出てきます。たとえば大学受験を例にとると、受験競争が熾烈を極めた世代と“全入時代”とでは、同じ大学を卒業したといっても学力が同じレベルとは思われないことでしょう。
逆に、単純に裾野が広がったとした場合、同じように「下位一割」といっても、そのレベルには同じように差が出てきます。数が多いほうが、下のレベルもまた多いということですね。以上は、ごく単純な算数レベルの事実です。

と、いうわけで…

ここまでで、ぼくが言わんとしていることは伝わったのではないでしょうか。
作品数が増えると、個々の作品に対するぼくたちの時間の割き方が変わり、愛着が薄く・親しみがわかなくなります。作品が少ない時代は一度ランキングされると一ヶ月ぐらい載りっぱなしだったものが、数が増えるとどんな良作でも2週に渡ってランキングに載りつづけることが難しくなり、ランキングの顔ぶれは目まぐるしく変わっていきます。
誰にも把握しきれないので、よくわからないものは十把ひとからげに考えられやすくなりますし、よいものはそれが一般化することで評価が下がり、悪いものは数が多いことで評価が下がり。要するに、数が多いと、ただそれだけの理由によって、ぼくたちは「作品が粗製濫造されている」という印象を抱いてしまいがちであることになります。


ニコニコには「原点にして頂点」ということばがあります。
しかしぼくは、発表当時は他に比べられるものがなかったこと(=無双状態だったこと)と歴史上の価値とから、人間心理の性質上、原点であるものは必然的に頂点として扱われがちなのではないか、と考えています。
以上を総括し、もう一歩踏み込んだ言い方をするならば、「古いものは実際よりもずっと価値を高く見積もられやすいのではないか、そしてその逆のこと(新しいものが新しいというだけで劣っているように見られる)も同様に成り立つのではないか」、そのようにぼくには思われるのです。
ニコニコがもし「ニコニコらしくなくなった」と感じられるなら、「動画数が増えすぎてしまった」というミもフタもない単純な事実が大きな一因としてあるのではないか。結局のところ、ぼくはそう言いたいのです。


すみません、こんな単純なことを言うのに長く書きすぎました(^^;
次回はこのシリーズの締めくくりとして、5年間を振りかえってぼくがニコニコしてきた動画を20作品紹介する「ニコニコ20選」をやりたいと思っています。*3 おそらくそれが今年最後の記事となり、年明け最初の記事は、いつもの年初のあいさつ記事か、ニコマス20選になる予定です。


前回と次回:

*1:「東方」や「アイドルマスター」は「その他」になります。

*2:以上の話は何かの本で読んだのですが、どの本に書いてあったことか忘れてしまいました。

*3:実のところノミネートはすでに終わっていて、後は記事を書くだけですが(^^;