中島隆信『刑務所の経済学』

刑務所の経済学

刑務所の経済学

この本、題名に「経済学」とついてはいますが、あまり経済学らしい話が出てきません。p.53の「刑罰需要曲線と刑罰供給曲線」のグラフがぎりぎり経済学っぽさを残していたぐらいで。
その題名から以前読んだこの本に似た内容を期待していたので、その意味では期待はずれでした。(↓こちらは本格的)

戦争の経済学

戦争の経済学

本格的な経済学の話が出てこず、インセンティブ話中心の行動経済学っぽい内容という点では、むしろこちらの本に近いテイストかと。

ヤバい経済学 [増補改訂版]

ヤバい経済学 [増補改訂版]

それで、実際にはどのような本かというと、「持続可能な社会」にとって、刑務所のあり方や受刑者の処遇をどのようにすべきか、というもの。展開されるのはほとんど社会福祉の議論です。この手の本でヒダリ系というと必ず「人権」が出てきますが、本書ではむしろ次のような逆説的な指摘として言及されています。

経済の安定的な成長がストップしたことにより、多くの国民は生活水準の悪化というリスクと常に隣り合わせにいる。いつ会社が倒産したりリストラされたりするかわからない。職を失えば収入の道は途絶え、住む家を失い、ホームレスに転落するかもしれない。
ある刑務所を訪れたとき、そこの処遇主任から発せられた言葉が頭から離れない。
「日本で憲法二五条が守られている場所をご存じですか。それはこの塀の中です。」
憲法二五条とは「国民の権利及び義務」の項目にある「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という条文だ。近年、「刑務所のほうがいい」とか「刑務所に入りたくてやった」などという動機から万引きや無銭飲食などの犯罪に走るケースが増加していることはよく知られている。いまや刑務所は実社会よりも人権が守られる場所なのである。(p.121)

なぜそう言い切れるかは本書をあたっていただければと思いますが、刑務所をめぐるインセンティブの構造を考慮すると、たしかになあ、なるほどもっともだ、と思われました。


これがらみでちょっと思い出したのが、あれは『さおだけ屋はなぜ潰れないのか』だか何かで読んだ話だと思いますが、次のような思考実験。
ラーメン屋か何かがあって、一人で切り盛りしているとタダ食いの客を防ぎきれない。監視役として一人店員を増やすとタダ食いを防ぐことができる、と。このとき、店員を雇うべきか。…というものなんですが。
店員を雇うかどうか、それは「状況による」としか言いようがないんですね。タダ食いされるとそれはコストですが、店員を雇うのもコストがかかる。店員を雇うコストのほうがタダ食いのコストを下回って、初めて店員を雇う必要が出てくるからです。その逆の場合は店員を雇ったほうがむしろ高くつくので合理的ではない。*1
監獄の憲法ニ五条を守るために支払われている国民の血税は囚人一人につき年間三○○万円。「年収三百万円時代」と言われて久しいですが、真ん中が三百万円ということはそれを下回る人が全体の半分いることを意味します。ということは、世の中の半分の人にとって自分で働くより刑務所で生活したほうがむしろよかったりするという妙なインセンティブを与えてしまう。むしろムダに“獄につないで”おくよりも、そのままシャバでの生活を続けてもらったほうが国の収支を考えるとプラスになるかもしれない。*2 *3


世の中のことは性善説ではとうてい割り切ることはできなくて、常に一定の「外れ」が存在するものであり*4、この事実を前提せずに社会の設計なんかできないし、するべきでもない。
しかも、犯罪者として刑務所に収監されている人の多くは凶悪犯罪の実行者ではありません。*5 これらの人々は短い刑期が課せられ、しばらくして出所してきます。出所者を刑務所に追い返すのでなければ、そのような人(いわゆる“前科者”)を社会に受け入れる必要があることは論理的必然と言えます。
であれば、その事実を受け入れ、それを前提した社会の設計を考えたほうが建設的じゃないですか、そのような制約を抱えた上で社会全体の効用の最大化をはかるとしたらどんな制度を考えたほうがより「有利」かを考えましょうよ、というのが本書の主張なのです。そしてそれはまた、「失敗してもやり直しがきく」社会設計の提案でもあります。


失敗してもやり直しがきくことは、人がその社会生活において絶望せずにすむための必要条件と思われます。
「人は明日のことを知らないから幸せに生きていけるんだ」とアレグザンダー・ポウプは言いましたが、これには補足が必要で、明日のことを知らなくても、人はそれを“想像”あるいは“予想”“予期”することができます。神ならぬ身に明日のことを端的に“知る”すべがなかったからといって、明日以降の自分の人生がどのようで<ありそう>かを考えることはでき、このまま生きていても何もいいことがない、と思ってしまったら人は絶望するのです。
敗者復活の仕組みを社会が備えることは、何も出所者のその後の人生ばかりでなく、この「希望格差社会」において世の中に背を向けて引きこもったりこの世から退場していったりしてしまう人を一人でも減らすことにもつながります。日本の場合は諸外国に比べて犯罪発生率が低く*6、より自罰的な傾向が見られるので*7、むしろこちらの対策について効果的かと。
で、こういう発想に至ると、もうそれは「社会福祉」の領域に足を踏み入れているわけですね。

*1:これが役所の場合、「国民の税金を使っているのにタダ食いなんて許せない」として、何が何でも店員を雇う方向に世論が傾きがちであることが、役所仕事の非効率性の発生源の一端となっているのはよく指摘されることです。この店員の給料も税金から支払われるわけで、これは大抵の場合に税金の浪費に他なりませんが…。「公務員の怠業」として言挙げされる事例に出会ったら、世論の前でちょっと立ち止まって「それが本当に合理的な対処なの? 税金の無駄遣いじゃないの?」と考えてみることをおすすめします。

*2:本人に年間百万円稼いでもらって、国が二百万の補助を出したほうが国庫にとってまだしも得になります。こういう考え方をするのは、経済学が倫理学的には功利主義と親和性が高く、義務倫理学を背景とする応報刑論とは観点がまったく異なるものだからです。もちろん再犯のコストなども考慮に入れて計算すべきですが、制度設計としては「社会保険」のような感じで考えたほうがよいと思われます。

*3:ところで自分は立場としては進化倫理学寄りの人間なので、義務論や道徳実在論の考え方は納得感を抱きづらかったりします。…と言いつつ(極端な意味での)文化相対主義には反対なので、考え方の一貫性をどう確保すべきかが今後の課題。「いや、これこそローティの言う『アイロニー』なんですよー、てへ♪」と一言で済まそうとするのは単なる言葉遊び、知的不誠実の誹りを免れないので、時間に余裕ができたら考えようと思います。

*4:進化論について少しでも考えたことがある人なら理解されるはず。生物は親の遺伝子を受け継ぎつつもランダムに進化するので上にも下にもブレることになり、必ず一定の割合で外れが存在することになります。

*5:犯罪白書を見ればそのことがよくわかります。たとえば平成23年版の「入所受刑者人員(罪名別・男女別)」を見ると、全体に占める凶悪犯罪の割合は「殺人(1.3%)」「強盗(3.4%)」「放火(0.7%)」「強姦(1.1%)」で、足しても6.5%にしかなりません。つまり、その他の9割強の人々は凶悪犯ではないということです。凶悪犯だけが収監されるわけではない以上、当たり前のことを確認したに過ぎませんが。→平成23年版 犯罪白書 資料編

*6:たとえばこちらを参照のこと。→図録▽犯罪率の国際比較(OECD諸国)

*7:こちら。→図録▽自殺率の国際比較