宗教的な、あまりに宗教的な

以前、哲学についての入門記事を書いたのですが、その際に初心者向けのブックガイドをやっています。

ぼくが関心を持って読んだり考えたりしているテーマはいろいろあるんですが、マイナーなのに熱心に追いかけているテーマとして「宗教」があります。
なぜ宗教に執着するのかといえば、ぼくが生まれながらの新興宗教信者であり*1、いろいろ悩んだあげく棄教することとなりましたが、そのように宗教というものが自分の人生の一部であったから、ではないかと。
で、宗教について知りたい、考えたいという人向けの記事を書こうと前から思ってたんですが、なかなかうまくまとまらないのでブックガイドをやることにしました。今回「なぜ人は宗教を信じるのか」というテーマでいかせていただきます。


不思議現象 なぜ信じるのか―こころの科学入門

不思議現象 なぜ信じるのか―こころの科学入門

人間この信じやすきもの―迷信・誤信はどうして生まれるか (認知科学選書)

人間この信じやすきもの―迷信・誤信はどうして生まれるか (認知科学選書)

誤り、間違いであっても、その正しさを「錯覚」して信じこんでしまうことがある。という方向から、人が信仰を持つようになるプロセスを説明した心理学の本です。


認知心理学では、人間は心にある種の傾向性=「バイアス(偏り)」を持っていて、いろいろと誤認識・錯覚を起こしやすいことが知られています。たとえば行動経済学という分野は人間の経済行動に対する認知心理学の応用ですが、人間がどのような誤った認識に基づいて投資を行なってしまうか、といったことが研究されています。
具体例として、「バーナム効果」をあげてみましょう。「あなたは人に大切にしてもらいたいと思っていますね」と言われると「正にそのとおり!なんで私のことがわかっちゃうんですか!?」と思ってしまう。言われたことは実際には誰にでも当てはまりそうなセリフなんですが、聞く側は自分のほんとうの姿をわかってもらえたと思い込む。
フェスティンガーの「認知的不協和理論」も有名です。世界の終末を予言したとある教団があり、信者はきたるべき日を待ったのですが、結局のところ破滅的な事態は何も起こりませんでした。そのとき信者はどうしたか。信仰心の薄いメンバーは愛想を尽かして脱会していったのですが、もともと信仰心の篤いメンバーは、むしろよりいっそう信仰にのめり込むようになったのだそうです。教祖の予言は外れたというのに、なぜ?
信仰することは何らかのコストを伴います。お布施のような経済的コスト、宗教活動にかける時間的コストといった直接的なものから、無宗教者からイロモノ扱いされる社会的コスト、戒律、献身等々。信心旺盛な人というのはその程度に応じてこれらのコストを支払っており、それまで費やしたコストが大きすぎると、メンツというかアイデンティティの問題として、いまさら「間違ってました」じゃ済まされない、後戻りの効かない状況に追い込まれるわけです。そのようにして、現実の否認が起きる。


このようにして人間は、そのもともと誤りやすい心の性質によって、“誤った”教義をもった宗教に“誤って”入信してしまい、“誤って”信仰を深めていく。というのが、これらの本の主張です。
その議論はたしかに正しいのですが、一人の人間が信仰生活を始め、それを送っていくことに関する記述としては、ちょっと一面的に過ぎるかな、とぼくは思います。
たとえば、そういう意味で言うなら恋愛だって似たようなものでしょう。メディアが発達し井の中の蛙でいることを許されない現代、男も女も星の数ほどいて、「この人」でなければならない必然性なんてどこにもないということは誰もがわかっています。そんな中で誰か一人を選んだ。そのときに起きた心的事象を「“誤って”恋に落ちてしまった」と、記述しようと思えば記述できるわけです。*2 それはある意味ではたしかに正しいかもしれませんが…


Nの肖像 ― 統一教会で過ごした日々の記憶

Nの肖像 ― 統一教会で過ごした日々の記憶

この本を読んで改めて意識させられることは、信者の人もよく言うように、「信心は理屈じゃない」んだなあ、と。


地下鉄サリン事件の当時、オウム真理教の教団幹部の多くが理系エリートだったことが世の人々に驚きをもって受けとめられました。反宗教の最右翼と目される科学の申し子が、なぜ宗教にのめり込んでしまったのか。それで、「解法ばかり追求してその意味や意義を理解しない受験競争の弊害」とか「教養の崩壊」だとかなんとかしたり顔で言う人もたくさんいましたが、ぼくはそのような論評は的はずれだと思っています。*3
本書は哲学者・仲正昌樹の若かりし頃、統一協会の信者だった時代の思い出話をつづったものです。東大理科一類の学生という理系エリートだった当時の仲正青年は、「その教えが正しいと考えたから」入信したわけではありません。入信の理由は、端的に言えば、「そこに居場所を見つけた」から、だと思います。
ちゃらんぽらんで適当に遊び歩いている世渡り上手な人に比べて、まじめな努力家ほど差別や貧困といった“苦悩の種”の尽きない社会の現状を目の当たりにして「世の中間違ってる」と思いやすいし、また非リア充であるほど別の意味で同じような気持ちを懐きやすいですよね。そのような人が自らの居場所を求めて飛び込む選択肢の一つとして、宗教は確実に存在するとぼくは思います。なんたって、宗教は現世を超越してますし、善きこと・弱きことを肯定してくれますから。*4
それにぼくは、科学や数学と、宗教とは、案外に近いものがあると思っているんです。どちらも日常を超えた「真理」を求めるものである点で共通しており、科学者や数学者が法則や定理を証明しようとする過程においては、いま正に自分が解決を試みようと取り組んでいる当のものが「真理」だ“と思う”からがんばっているのであって、それをあまり疑ってはいないはずです。その心のありようが、信仰と何ほどか違うものとはぼくには思われません。小川洋子の小説『博士の愛した数式asin:4101215235はそのことをよく描きだしていました。*5
その営みは、証拠が無かったり証明されていないことを、「真理」として受け入れない、というわけでは実はありません。否定されさえしなければ、それは「未だ科学的真理とは呼べない」というだけのことであって、まだ見ぬ未来に証明される予定の真理候補として大切にとっておかれたり(何とか予想、というのはそういうもんですよね)、あるいは科学的真理“とは別の”真理(宗教的真理とか何とか)として受け入れる余地を残しています。


こう考えてみると、理系エリートにも信仰を持っている人のいることがなんら不思議ではないというか、むしろ理系だからこそと感じられることすらあるのではないでしょうか。*6


宗教を生みだす本能 ―進化論からみたヒトと信仰

宗教を生みだす本能 ―進化論からみたヒトと信仰

解明される宗教 進化論的アプローチ

解明される宗教 進化論的アプローチ

完全教祖マニュアル (ちくま新書)

完全教祖マニュアル (ちくま新書)

以前から何度か書いていることですが、この世の「事実」を客観的に記述する手段として、経済学や進化論はとても強力な武器になります。「信者の主観」から離れて、ある意味“客観的”な(Objective:反対側の)立場から、人が宗教を信じる、否、宗教が人に信じられるメカニズムについて書かれたのがこれらの本です。


宗教もある意味で「生き物」です。この世にはたくさんの宗教が生まれては消え、生まれては消えしています。そんな中で「生存戦略」に長けたものが生き延び、多数の信者を獲得する。つまり、人が宗教を信じるのは、単に人が宗教を信じるというだけでなく、その逆に、その宗教がその人に「信じられやすい」性質を持っていたため、と言うことができます。*7
ぼくは昔、論語が「子曰く」で始まり、聖書がマタイやルカによって伝えられ、お経が「如是我聞」(にょぜがもん。かくの如く我聞けり)から始まることの共通性を不思議に思っていました。教祖が自分の教えを書物として著さず、弟子が「教祖はこんなことを言っていた、こんなことをした」と言いふらしたものが“ありがたい教え”として崇められているけども、嘘が混じってたらどうするの、と。昔のことだから教祖が字を書けなかった場合もあるでしょうが、それにしたって孔子ぐらいは…。
しかし、実は逆なんですね。間接的だからこそ、逆に神秘さ・神聖さが増して旺盛な信仰の対象になる。「伝説」は伝え聞いたものだから伝説なのです。*8 「彼は年間262本もヒットを打ったのだよ」と人から紹介されるのと、本人が「俺は年間262本もヒットを打ったのだよ」と言ったのを聞くのと、論理的にはまったく差異がないはずなのに聞こえ方が違う気がするのと同じことなんでしょうね。ソシュールの『一般言語学講義』やヴィトゲンシュタインの『青色本』『茶色本』が他と違って妙なオーラを醸しだしているのもそのためでしょうか。


信仰には先述のとおりコストがかかるので、それだけ見ると信者の生存にとっては不利ですが、教団内の同士を結束させ利他性を生み出すことによって、集団として信者の生存に寄与する面があり、そのようにして、宗教は人間に生かされ、人間は宗教に生かされる、人間と宗教との「共生」が自然発生しました。農業や医療が未発達でひとびとが簡単に餓死したり病死したりしていた過去、そうした共生関係は一定のメリットをもっていた。
肥満の人が「食べれば太る」ことがわかっていても食べることを抑えられないのは、農業や狩猟の未発達だった過去、目の前に食物があれば食べてしまう人のほうが、そうでない人に比べて生き残りやすかったことの名残りと言えます。そうした「生存本能」が、いまの時代には不適合と思われることはたしかにあります。しかしだからといって、それを一概に否定することもできません。
火に触れれば「熱い!」と感じ、腐ったものは「臭い!」と思い、うれしくなると上気して頬を赤らめ、異性と見れば気にせずにはいられない。そういった“人間くさい”感情の動き、感動・情動は、もとをただせばそうした「生存」という至上命題の要請に沿ってそうなってしまっているものであり、それは無意識に肉体の奥からこみ上げてくるものなのであって、たしかにそれらを現状に適合するよう制御することは「正しい」ことなのでしょうが、そのようなことが行き過ぎると、身体の欲求にムリヤリ蓋をしているようで、むしろ息苦しくってしょうがありません。
“宗教する本能”のようなものがあるのだとしたら、それにだって同じことが言えると思います。現状に合わない部分があるからと言って否定すればいいってことにはならない。むしろ「適切なかたちで」それと付き合っていくことが必要なのだと思います。日本人が「無宗教」と自他共に認めておりながら、クリスマスを祝い、千羽鶴を折り、葬式を出して墓を立てるのを止めないのは、そういうことでしょう。


トリに『完全教祖マニュアル』を挙げましたが、最後に、その内容に関する思考実験をば。


だまされている人がいて、その人が、自分がだまされていることを知ることなく、「ハッピー」なまま亡くなったとします。
このとき、「だましている人」の行いは、悪と呼べるでしょうか。
次に、だましている人がいて、その人が、自分がひとをだましていることを知ることなく、「ハッピー」なまま亡くなったとします。だまされている人はもちろん、自分がだまされている(た)ことを知りません。
このとき、「だましている人」の行いは、悪と呼べるでしょうか。


ある人は、その臨床心理学の知識や人生経験等をベースに利用者の相談にのり、利用料をいただき、利用者を少し「生きやすく」してくれます。
ある人は、その宗教教義やオカルトの知識をベースに信者の相談にのり、お布施(喜捨)をいただき、信者を少し「生きやすく」してくれます。
たとえば臨床心理学の一つである精神分析には、アイゼンク『精神分析に別れを告げようasin:4826502281のように、学問を騙ったオカルトではないか、との批判があります。このとき、前者と後者にどれほどの違いがあると言えるでしょうか。


だから(?)ぼくは、信仰を拒否しますが、信仰を否定することができません。
被害者がいないのに、むしろwin-winなのに、否定なんて、できるはずがないじゃないですか。
もちろん、被害者が出るようなケースでは、その被害について断罪されるべきだと思いますけども…。

*1:つまり、親が信者である宗教に、生まれたときに入信させられた、ということです。ぼくはこの親の行為が、「子どもの幸せを願って」なされたものであることを微塵も疑っていません。またぼくは、多少ひねくれた見方ではあれ、「宗教が人を幸せにする」こと(があること)も基本的に疑っていません。しかしそのことと、「ぼくが宗教を信じることができない」こととは別問題です。
ちょっと脱線しますが、自分の名前が変わった名前、いわゆるDQNネーム(キラキラネーム、とも言いますが)であることに悩んで改名しようと思っているという人に、「親の愛をなんと心得るか」と説教している人をこないだ見かけましたが、「愛していれば子どもを困らせていいわけじゃないだろう」とぼくは思います。「ぼくも私もゲーム脳。 - hideo’s hideout.」も参照のこと。

*2:「吊り橋効果」とか「ゲレンデマジック」として言われていることなんて、正にそういうことですよね。

*3:そもそもぼくは、「昔のほうが今よりよかった」という類の議論がだいっきらいです! 「いまどきの若者は本を読まなくなった」とか、ぼくより本読んでから言えと言いたい。

*4:これを簡単に「それってルサンチマンでしょ」と、ぼくはありきたりのクリシェで片付けるべきではないと思っています。それはなんの問題解決にもなっていません。

*5:科学や数学が主観的な情熱と信仰の上に成り立ちうる、というか、成り立っていることを示すエピソードとして、ガリレオの地動説信仰をあげることができます。ガリレオは熱心に地動説を説いたかどで宗教裁判にて有罪判決を受けましたが、当時の地動説の証明水準は天動説を脅かすほどのものではありませんでした(内井惣七『科学哲学入門』asin:4790705587)。要するに、ガリレオは地動説の正しさが「分かっていた」のではなく、地動説が正しいと「信じていた」のです。ちなみに、地動説の正しさを完璧に証明したのは後のケプラーだと言われています。
また、集合論の父と呼ばれる数学者カントールが無限集合についての定理を証明した際に「私は証明した。しかし信じられない」と知人あての手紙に記したことも、科学者の信じるものを志向する心性を物語るエピソードと言えます。『博士の愛した数式』にも出てきた、ゲーデル不完全性定理についてのアンドレ・ヴェイユの有名なことば「神は存在する。なぜなら数学は無矛盾だから。そして悪魔も存在する。なぜならそれを証明することができないから」というのは、さすがにシャレて言ったものと思いますが…。

*6:人間の現実(humanity)を見ようともせず「科学は宗教と対立するものだ」みたいな教科書的な教条をテンから鵜呑みにして「受験競争の弊害」だとか「教養の崩壊」だとか言ってくれちゃってる人のオツムのほうが、それこそ受験競争の弊害で教養(the humanities)が崩壊してるんじゃないんですかね。

*7:同様の議論を過去にしています。「森監督にわからなかった宗教の素顔。 - hideo’s hideout.」参照。

*8:この意味でも、その宗教の教勢の大きさとその教義の「正しさ」はあまり関係がないことがわかります。そしてこのことは実際には、一介の凡夫たる我々が先端科学技術の権威を受け入れる心のメカニズムと何も違いがありません。ぼくらは科学技術を「正しいから」信頼しているわけではありません。ぼくも含めてこの世に生きる大部分の人は、先端科学技術の正しさを云々できる知性も知識も有してはいないのですから。