『Fate/Zero』と道徳的直観

Fate/Zero(1) 第四次聖杯戦争秘話 (星海社文庫)

Fate/Zero(1) 第四次聖杯戦争秘話 (星海社文庫)

今回は『Fate/Zero』というアニメ(画像は原作の小説)のエピソードを肴に記事を書いています。どんなアニメかは以下の公式サイトを参照のこと。TVアニメなのに映画のようなクオリティで、バトルものなんですがストーリーも濃密で、毎回引きこまれて24分があっという間に感じられるアニメです。

で、第十六話「栄誉の果て」をニコニコで見たんですが…*1
ここから先は、その回のネタバレを含んでますので、もし見てない方がいたら先にそちらを見ていただいたほうがよいかと思います。


(ちょっと改行入れます)












こんな感じでいいでしょうか。記事の畳み込みというのがぼくはあまり好きじゃないので…(^^;


で、「栄誉の果て」なんですが。
その回の最後のほうで、主人公の衛宮切嗣が、ライバルであるケイネスをだまし討ちで殺害したことにぼくは驚いてしまったんですが、やはりそれが衝撃的だったためでしょうか、コメント上でその行動の是非について議論が始まっちゃったんですね。挙句「ニコニコでFate見るのやめようかな」なんてコメントまで出てくる始末。


このだまし討ちについてどう考えるかということなんですが、「そこまでしなくても…」と思うが、その行いを否定することもできない、というのが自分の感想です。
もともと第八話「魔術師殺し」で切嗣はビル爆破によってランサーもろともケイネスたちの殺害を試みたわけですから、もしそのときに成功していたら起こった結果は今回と何も違いがありません。そこで重要と思われるのは、今回「外道」と言って切嗣を非難した人も、おそらくそれを非難しなかっただろうということです。ビル爆破の時点ではケイネスの生死は不明で、普通に考えれば「死んだ」と思うのが妥当な状況でしたが、誰もそれを非難しはしませんでした。
また、あの場面では、切嗣がケイネスを殺すことはできませんが、ケイネスが切嗣を殺すことに制約はありません。その前にケイネスは言峰璃正神父を闇討ちしているわけですから、同じように切嗣を殺すことはできたでしょうし、ケイネス自身、切嗣と同じこと(だまし討ち)をしたと言えばしたのです。


その一方でぼくには、このとき切嗣に「外道」との言葉を浴びせた人の気持ちも理解できます。
あの時点でケイネスはほぼ無力化されていました。また、ケイネスにとって、言峰神父を殺したことには明確な実利がありましたが、あの時点で切嗣を殺したとしても復讐心を満たす以外にメリットは無く、ケイネスが反撃に出ない可能性は十分ありえたと思われます。
だまし討ちであること。そしてそれが必要性の(あまり)ない殺人であったこと。以上に対する義憤から、切嗣を非難したのだと考えられます。*2 ぼくが「そこまでしなくても」と思ったのも、同じ理由からでしょう。「魔術師殺し」の回で非難が起きなかったのも、ビル爆破の時点では互いの間に契約もなく、ケイネスに十分な力があったわけですから、非難の条件を満たしていなかったためと思われます。


この流れを見てぼくが思ったのは、「トロッコ問題」みたいだな、ということでした。


ちょっとでも倫理学をかじったことのある人であれば知っている話だと思いますが、知らない人もいると思いますので改めて。

ある二股にわかれた線路があり、そのそれぞれの先で線路工事が行われており、片方には5人、もう片方には1人が線路内で作業しています。
二股の分岐点のそばには線路の切替器があり、あなたはそのそばに立っていました。現時点では、線路は5人いる方とつながっています。
そこへ、遠くの方から線路上をトロッコがものすごい勢いで走ってくるのが見えました。
あなたの位置からでは作業者まで距離があり、大声をあげても気づいてもらえません。このままトロッコを見過ごせば、その先にいる5人は轢かれて死んでしまうでしょう。
しかし、切替器を操作することによって行き先を変えれば、犠牲者は一人で済みます。
このとき、切替器を操作して行き先を変えることは、許されるでしょうか?

次に、これをアレンジした以下の問題と見比べてください。

今度は分岐点の代わりに、線路上に橋があります。あなたはもう一人の人と、その橋の上にいました。
線路の先の方にはあいかわらず5人の作業者がいて、そこに向かってトロッコが暴走してきています。
ここで、橋の上のもう一人を線路に突き落とした場合、トロッコはその人を轢いたあとで確実に停止することがわかっているものとします。
このとき、その人を橋の上から突き落とすことは、許されるでしょうか?

このような設問でアンケートをとると、あることがわかります。
「1人を死なせる代わりに5人を生き残らせる」という点で、両者に違いはありません。が、前者については多くの人が「許される」と答えるのに対して、後者についてはその逆に多くの人が「許されない」と答える、ということです。
いずれも、「最善の結果」を求めるなら、とるべき行動について選択の余地はありません。1人が生き残る世界と5人が生き残る世界、どちらがよいかと選択を迫れば、誰だって5人のほうを選ぶものだからです。しかし、その結果が同じであるにもかかわらず、片や「仕方ない」とされるのに対し、片や「外道!」と非難されるわけです。その違いは、自分の手を直接的に汚すかそうでないかでしかないというのに。
…というのが、トロッコ問題の概要なんですが。


自分だってそっちのほうがいいと思ってるのに、手を汚した人を許せないんだね。人間って汚いね。卑怯だね。
ぼくがこの問題について考えたときに感じたことは、そういうことではありません(^^; ここで、「結果」として考えられていることの範囲が狭いんじゃないか、ということでした。
「1人を死なせる代わりに5人を生き残らせる」ことについては確かに同じなんですけど、直接的に手を下したかそうでないかということだって、結果の一部なんじゃないでしょうか。*3


逆に、自分がその「死なされる人」だったと考えてみましょう。
切替器の場合は、自分が線路で作業していたらトロッコが突っ込んできた、と見えます。橋の上の場合には、隣の人間が急に襲いかかってきて突き落とされた、と見えることになります。このとき被害者が何を思うかはハッキリしています。もしその場に第3の人間が目撃者としていた場合、その人が思うこともおそらく被害者と変わらないでしょう。
この世に人間が一人しかいない世界では、「道徳」が問題になることはありえません。道徳は、人が他の人と生きていく世界で生まれるものであり、必要とされるものです。他人の目にどう見えるか、どう思われるか、そういった「社会性」の問題は道徳の不可欠な要素と言えます。
どんなに正しいことを言っていても/やっていても、その言い方/やり方の如何によって、ぼくたちの“受け取り方”が違うのは、…それは仕方のないことではないかな、と。

*1:ぼくは高校を出て一人暮らしを始めて以来家にテレビが無く、そのためテレビを見ない生活がずっと続いています。アニメを見ることも無かったのですが、一昨年ぐらい前からニコニコ動画でアニメの放映が始まって、それを機会に見るようになりました。まさかこの歳になって(から)アニメを定期視聴するようになるとは思いもよりませんでしたが…。本格的に見だしたのはやはり『魔法少女まどか☆マギカ』からでしょうか。『Fate/Zero』と作者が同じで、作風も同じですね。

*2:その死に際の様子が「かわいそうだった」ことも大きな理由の一つとしてあるとぼくは思ってます。うまく議論の俎上に乗らないのでここではあえて外してますが、このような「感情」の問題は人間にとってとても大事なことであり、ないがしろにしてよいことではありません。自由市場主義、功利主義に代表される「結果主義」(帰結主義)の倫理学がもつ「感情をすべて勘定に還元する」姿勢に、ぼくは少々違和感を抱いています。…いや、反対してるわけじゃないですよ。「最善の結果」を目指す結果主義の考え方が「最善」なのは明らかなので。割り切れない感じが残るだけで。

*3:この問題には、「当事者性」や「死なない可能性」という要素もあります。一人で工事していた人は、切替器がもともとそちらを向いていたらいずれにせよ死ぬ運命でした。しかし、橋の上にいた人はまったく無関係な赤の他人です。誰かを生かすために、無関係な人を巻き込んでよいのか。これが当事者性の問題。次に、突き落とされた人は確実に死にますが、切り替えられた人はすんでのところで気がついて逃げ延びるなどといったかたちで、「死なない可能性」があります。これらは問題を複雑にする要素であることと、どちらも設問の内容を変えることによってテクニカルに回避可能であるため、ここでは考慮に含めません。