「愛」とは何か

以下の書きものは旧本館からの転載です。
もう5年も昔の書きものですが、今読み返してもあまり考え方に進歩がないのでちょっと苦笑してしまいました(^^;




それは「倫理学」の期末テストでのことだった。
「愛について述べよ」。
答案用紙のほぼ半分を占める大きな空白は、そんな問いのために確保されていた。


「愛“について”(about)」という、少々アイマイでいやらしい設問ではあったが、ぼくは素直に解釈することにした。
いざ書き始めてみると、それまで「愛」というコトバの意味について考えてきたことが、実にスラ、スラ、と出てくる。
チャイムが鳴った。
書き残したことはたくさんあったが、それでもその時点でぼくの言いたいことの「核」は伝えられたに違いない、と、珍しく満足感に浸ることのできた答案となった。


ヘレン=E=フィッシャーに、『ANATOMY OF LOVE』asin:4794205082という著書がある。
その書名をふつうに訳せば「愛の解剖学」となるところだろうが、カール=グラマーの『SIGNALE DER LIEBE』asin:4314007311という本に先にその名前を使われていたため、邦題を「愛はなぜ終わるのか」と変えねばならなかった。そして、その一見センセーショナルな題名により、それは一躍ベストセラー入りすることになる。
その内容と齟齬を生じる題名のついていることは、しかし、不幸なことではなかったのだろうか。

ところで、恋の情熱はうすれていく。(p.50)
恋の情熱には始まりと終わりがある。(p.52)


邦題に対応するセンテンスを本文に探すとこうしたフレーズが見つかる。
しかし、なぜ「愛」でなくて「恋の情熱」などと迂遠な書き方をするのか。
そう思って見てみると、この後者のセンテンスの直前に、こんなフレーズがついていた。

年齢を重ねるにつれて、愛着を維持することがやさしくなる。だが、(同上)


さらに、その前にある次のパラグラフを拾っておきたい。

ここで、さらに油断ならない情動が生まれる。愛着だ。このあたたかくて快適で安定した感情については、おおぜいのカップルが感じたと語っている。リーボウィッツは恋の情熱がうすれると愛着が生まれ、新しい化学作用にとってかわられると考えている。
(後略)
リーボウィッツは、愛着の段階に入ったパートナーはそれぞれエンドルフィンの生産をうながし、互いに安全、安定、静穏といった気分を与えあうと考えている。恋人たちは平和な気持ちで語らい、食べ、眠ることができるようになる。(pp.51-52)


ここでわかるのは、著者は「愛」の実質を「恋の情熱」と「愛着」の二つの異なるステージに分析している、ということだ。終わるのは「愛」ではなくて、その内の「恋の情熱」のほうなのである。
「愛着」は「恋の情熱」の対立物として措定されている。しかし「愛着」のこのふるまいはどうだろう。「あたたかくて快適で安定した感情」──それをぼくたちは、「愛」と呼んではいなかっただろうか。
だからぼくは、フィッシャーの言う「恋の情熱」を「恋」と、そして「愛着」を「愛」と、呼び分けたいと思う。


恋と愛の分節の問題については、以前にも議論したことがある。
繰り返しになることもあるだろうが、ここで一度わかったことをおさらいしよう。


(1) 「恋愛」とは言うが、恋と愛とは別ものである。
(2) 恋とは恋愛(感情)のことである。
(3) 燃えあがったり燃え尽きたりするのは、恋である。
(4) 生まれた恋は必ずうすれるようにして消えていく。
(5) 恋がうすれると、入れ替わりに愛が芽生える(ことがある)。
(6) 愛とは愛着(感情)のことである。
(7) 恋の対象にならなくても愛の対象にはなりうる。


愛着はどうして生まれるか。それは「自己愛の配分」によって、と答えてみたい。この問題には、次のような哲学的基礎を与えることができるかもしれない。
ある対象が「わたし」の生活世界の内側に存在しつづけ、それゆえに「わたし」の存在をその対象を抜きにして語ることが不可能であるとき、それは「わたし」の一部として“身体化”されている、と言える。
さらに、その対象が「わたし」にとってある種の肯定性を示すとき、その対象に対して「わたし」が抱く感情、それこそが「愛」なのである。その逆に、その対象が否定性をもつ場合を「憎」という。


このことからただちに、その論理の必然的な帰結として、愛の対象はそれが身体化されていることにより日常あまり意識されることがないということ、そして、愛の対象が突然その存在をやめたとき*1「胸にぽっかりと穴があいたようだ」と表現されるのは故ないことではないということ、が言える。
愛の対象が何らかの用具であるとき、それを「愛用品」といい、兄弟や家族に対して抱くある種の感情を「兄弟愛」「家族愛」といい、ペットの犬を「愛犬」と呼ぶ、こうした諸々の「愛」の用法を、この考えはカバーしている。
そこにあるのは「好意」でも「同情」でも「共感」でも「性的な牽引力」でも、その他これまで「愛」について言われてきた何者でもない。最後のものについて言えば、「家族愛」はインセストを意味しないし、「愛犬」はズーフィリアの対象なのではない。
愛は時とともに深まるが、それは、だからいわゆる「馴染み」の感覚に近く、ロマンティックなものでもウェットなものでもないのだ。


そしてさらに、次のようなことが言えるはずだ。
愛の対象は、各人の生活世界内の存在に限られるわけだから、一般生活人の意識においていわゆる「博愛」──ありとあらゆるものを分け隔てなく愛すること──が成り立つことなどありえない、と。
そもそも、愛とは自己愛の配分である。
「内」が存在するためには「外」が存在しなければならず、「光」の存在のためには「闇」の存在が前提されるのと同じように、「自己」の存在のためには「他者」が必要とされる。
愛が成立するためには、愛することのない対象=「他者」の存在が前提されねばならなかったとするならば、「博愛」という観念は「愛」の語義からして矛盾しているのである。


「愛」とか「恋愛」とかいったコトバの語釈については柳父章翻訳語成立事情』asin:4004201896や『一語の辞典 愛』asin:4385422036等を参照していただくとして、今のところ、「恋」と「愛」の問題について、ぼくはこんなふうに考えている。

*1:これを「対象喪失」という。小此木啓吾対象喪失asin:4121005570、野田正彰『喪の途上にて』asin:4000022873等参照。