杉本厚夫『映画に学ぶスポーツ社会学』

今年は国際的なスポーツイベントがいろいろありました。年初にトリノオリンピックがあり、春先?にワールドベースボールクラシックWBC)の第一回。さらにサッカーワールドカップ
そして、スポーツにからむ事件も、いくつか起きています。そんなときに読んだのがこれ。


映画に学ぶスポーツ社会学

映画に学ぶスポーツ社会学

以前から「スポーツ社会学」「スポーツ倫理学」に興味があったんですが、心の準備がようやくできたのか(^^; ついに手を出しまして。注文したのがこないだ届いたので、このところ読んでいました。
本書は、スポーツをモチーフとした映画を肴にスポーツ社会学のトピックを一つずつ紹介するという、よくある「啓蒙書」スタイルの本です。映画の紹介から入るツカミは、それにつづく社会学説の紹介とその映画自体を見たい気持ちをかきたて、ぐいぐいと引きこむ力をもっており、啓蒙書として成功していると思いました。目次を拾ってみるとこんな感じ。

第1章 アマチュアリズムの行方 「炎のランナー(Chariots of Fire)」
第2章 教育としてのスポーツ 「がんばれ!ベアーズ(The Bad News Bears)」
第3章 スポーツにみるジェンダー 「プリティ・リーグ(A League of Their Own)」
第4章 ファンがつくるスポーツ文化 「エディー 勝利の天使(Eddie)」
第5章 メディアによってつくられるスポーツ文化 「ヒーローインタビュー」
第6章 スポーツの近代化とつくられる伝統 「シコふんじゃった
第7章 なんのためのスポーツか 「Shall we ダンス?
第8章 スポーツの美学「勝利」と「挑戦」 「ティン・カップ(Tin Cup)」
第9章 障害者スポーツの悩み 「遥かなる甲子園」
第10章 グローバリゼーションとナショナリズム 「ミスター・ベースボール(Mr.Baseball)」
第11章 スポーツビジネスの台頭 「エニイ・ギブン・サンデー(Any Given Sunday)」
第12章 スポーツの大衆化と若者文化 「私をスキーに連れてって

ぼく自身の読んでみての感想は、しかし「食い足りない」というものだったりして(^^;
もともと社会学のたしなみがあり、しかも以前からスポーツ社会学に興味をもっていたものですから、どんなトピックがあるかもある程度事前に把握していたため、要するに「知ってることばかり」だったからなんですね。ただ、この本を読んで改めて、その一つ一つのトピックを掘り下げていきたいな、と感じています。
ぼくはそのときどきで「科学警察」とか「風俗史」とか「対人心理学」とか何とか本の“マイトレンド”が半年ほどつづいて、その期間中そのジャンルの本を集中して読んだりするんですが、スポーツ社会学・スポーツ倫理学のトレンドが生まれそうかも。仕事の忙しさとのかねあいはありますけど(^^;


ところで、ぼくは、これは以前書いたかもしれませんが、イチローのファンです。


実のところぼくは、昔は野球が嫌いでした。というか、「タマの小さい球技」全般を嫌っていました。というのも、目が悪いクセに眼鏡をかけたがらずコンタクトも入れないので、球が見えなくて競技についていけないからです。このことは、そこそこ自分の運動神経に自信をもっていた小人物なぼくには耐え難い苦痛でした(^^;
そんなぼくが野球を見直したのは、高校のころ。ちょうどぼくの在籍時、その高校が何度か甲子園に出場し、応援に行ってからのことです。そしてイチローが活躍し始め、プロ野球を気にするようになりました。
しかし、イチローマリナーズに行ってしまった後、日本の野球からはどんどん心が離れていったんですね。もともと「野球」のファンでなくイチローという「選手」個人のファンだったためもありますが、イチローのプレーの背後に見える、あの「球場」のつくり。観客とフィールドを隔てる日本野球の高い壁、それが、「高野連」の体質とその享受のあり方に典型的な、運営側・観客側の総体をひっくるめた「日本野球」を象徴しているようで、ぼくは日本の野球にどんどんと愛想を尽かしていったのです。
そんなところに現れたのが、欽ちゃん率いる茨城ゴールデンゴールズでした。ぼくにとってその存在は、ほとんど「日本野球の救世主」のように見えました。すぐにファンになっていました。
だから、あんな事件が起きて球団存続の危機に陥ったことは、ぼくにとってはひどくショックなことでしたし、これで本当に解散してしまっていたら、ぼくは日本野球に完全に愛想を尽かしていただろうと思います。まあ、ぼく一人が日本野球に絶望したからって何がどうなるわけでもないんですが(^^; 自分の楽しみが一つ減る、ということで、ぼく的には大問題だったわけなのです。


今回、ボクシングの試合で事件が起きました。いろいろな意見を読みましたが、そもそもあまりボクシングに興味をもってないぼくに何か意見のできるはずもありません(^^;
ただ。

「ボクシングもショーだったんですね」

という一言に、ぼくは引っかかりを覚えました。
ボクシングに限らず、観客の存在するすべてのプロスポーツはすべからく「ショー」であるべきなんであって、今回の問題の核心は、だから「ボクシングがショーであったこと」なんかではありえず、「今回のボクシングの試合が、ショーとして失格であったこと」のほうじゃないか。
ぼくに言わせれば、そういうことになるからです。


そこにあるのは、スポーツの価値が観客の存在とは独立して存在する(はずだ)、という、スポーツの価値の“実在論”ではないか。
いや、アマチュアの、ボランタリーなスポーツの世界だったら、それはわからなくもないんですよ。自分がそれに快を感じるから、一人黙々と走る。そういうことは、そのレベルであればありうるだろう。体を動かすことに伴う快、というのはあるでしょうからね。
でも、たとえば「記録」というものを意識した時点で、そこには“他者”が介在することになるわけです。そして、プレーすることでギャラを得るプロスポーツが、“他者”から切り離されているはずがないんですよ。一見 人目を気にしてなさそうに見える「飽くなき記録への挑戦」であれ、“他者/の視線”という契機がそこには必ず存在する。そのため、その多寡の問題はあれどスポーツには「ショー(show:見物)」的な部分が常に存在し、そしてぼくたちは、その「ショー」に接することで、熱くなったり、喜んだり、悲しんだり、あるいは呆れたりするのです*1


ゴッフマンとかルーマンといった存在を思い出せば、もちろんスポーツ社会学やスポーツ倫理学にも、ぼくが思っているような「スポーツをショーとして捉える」視角がきちんと存在するでしょう。今回のような事件の存在もあって、こうした領域にますます興味をもつようになりました。
まあ、今回の事件は、ショーもない話だなあ、とかいって(^^; ……オヤジの階段のぼりはじめてますね、ぼく……。

*1:同月同日追記:この指摘は、しかし少々イジワルなものであったかもしれません。というのは、この一言を通して、次のようなことを言おうとしていたかもしれないからです。スポーツは、よく言われるように「筋書きのないドラマ」であるべきであって、「ドラマ(drama:劇)」⇒「広い意味でのショー」であることそのものが問題なのではなく、「筋書きのあるドラマ」⇒「狭い意味でのショー」であったことが問題なのだ、と。