森達也『スプーン』(3)

というわけでつづき、さっそく秋山眞人と著者の会話から。

「狂人と超能力者との区別は僕らにはつきません」
「はい」
「すごく失礼な言い方になるかもしれないけど、こうして撮影を続けながら、僕はただの狂人を撮っているだけじゃないだろうかという不安を時々感じます」
僕の言葉に秋山は微かに目を細める。上下の唇の隙間から白い歯が覗く。
「……狂人と超能力者、それともうひとつの可能性がありますね。イカサマ師です。確かにこの境界は客観的には微妙です。でも、視点を変えればこれ以上ないほどにシンプルです。能力がホンモノかどうか、その白黒さえはっきりつけばいいことです。徹底的に研究してくれればいい。僕らはいつでも、研究素材になる覚悟はしています。(後略)」(p.274)

創唱宗教の教祖の言うことも、狂人の言うことと区別がつきません。その意味では、超能力者というのは“崇拝されない教祖”という言い方ができるかもしれない。旧約聖書に記されたさまざまな時代の預言者たちの数々の苦難を、現在進行形で引き受けている人たち。
しかし、この二人の会話は、無意識のうちにある大きな前提を呑みこんでしまっています。考えてみてください。狂人と超能力者の区別がつかないのは、なぜなのか。
その思考の筋道、メシの種がどこから出ているかが常人には理解できない、という意味では、前々回述べたように、科学者だって同じなんですよ。……と言えば、彼らが何を呑みこんでいるのか、わかるのではないでしょうか。と、ほのめかすだけで次に移ります(^^;


最後に、超能力番組をつくっていたあるテレビマンの話。

「この手の番組のピークはちょうどバブル期と重なります。現在は以前ほど視聴率がとれなくなったということもありますね」
「飽きられたんでしょうか?」
「そうではなく、視聴者層が二分化しちゃったんですよね。要するに以前は、あるかどうかわからないけど興味があるという層が大半だったんですよ。そしてこの層がメインの視聴者だった。ところが最近は、検証なんかしなくたってこういう現象はきっとあると全面的に肯定する層と、たとえ目の前で見てもあるわけがないと頭から否定する層に二極化しちゃったんですよ」
「つまりどっちもテレビ番組には興味を示さない?」
「そういうことです。(中略)でも、肯定するにしても否定するにしても、見る必要がないと思いこむことは健全ではないはずです。そういう意味では好奇心のありかたが、一昔前とはだいぶ変わってきたような気がするなあ」(pp.307-308)

ひとくくりに言ってしまえば、これは「昔はよかった」論の一種であり、「今どきの若者は(とは書いてませんが)昔に比べて自分の頭でものを考えなくなった、脊髄反射的に反応し、刹那的な生き方をしている」というそこらへんによく転がっている若者論の類に感じられます*1。こういう話を聞くと、ぼくにはどうしても拒否反応が出てしまうんですよね。
この人の言うことは、本当に本当なのかな、きちんと調べて言ってることなのかな、と疑問に思います。たとえば、ぼくのうちにはテレビがなく、よってぼくはふだんテレビを見ることがありません。ぼくだってその「テレビ番組には興味を示さない」人間の一人に数えられるでしょうが、その「どっち」でもない「もうひとつの可能性があります」。
また逆に、それじゃあ一昔前はそんなに「健全」だったのでしょうか? 今の時代、この社会がそんなに理想的なものでないことは自覚していますし、実際そういうエントリをいくつも書いてます。が、だからといって、昔や、別の国ならいいのか、ともぼくにはあまり思えないんですよね。隣の芝生は青く見えるもの、過去は常に美化されるもの。なんかそんなふうに思っちゃうんですけどもね(^^;;;

*1:ハイデガーは「空談」とか「頽落」とか言ってましたが、そういった議論をドライブするのは「デカルト的不安」の心性でしかないのじゃないか。いつの世も、手を変え品を変え、こういった“お話”は尽きないものです。ぼくは小市民主主義者なものですから、空談の何が悪い、と脊髄反射で言いだしがちではありますが(^^;