森達也『スプーン』(2)

前回のつづきです。
今回は本書の中の印象的なところを拾ってコメントしていきたいと思います。


超能力者・秋山眞人の妻に著者が質問して返ってきた答え。

「……別に超能力者だから結婚したわけじゃないですし。普通ですよ。普通の夫だし普通の父親です」
そう言ってから彼女は、「だけど何が普通かなんて、本当のところはわからないですよね」と小声でつぶやく。私が今見ている紫色が、他人にも同じ色に見えているかどうかはわからないですよね? もしかしたら私にとってのピンクが他人にとって紫なのかもしれない。どんな色が見えているかなんて結局第三者には絶対わからないわけでしょう? そんなもんですよね、人の感覚なんて。(p.220)

高校のとき、演劇部のある公演で、そのときは友だちが重要な役を演じていたんですが、こんなモチーフの劇を見たことを思い出します。
人類は地球外の星にも居住するようになっていたのですが、ある星に生まれた人は、地球人には「赤色」に見えるものが「青色」に見え、地球人に「青色」に見えるものが「赤色」に見える、という設定がありました。この設定が伏線となってヤマ場にどんでん返しを引き起こし、全体としてはエンタテイメントでありつつ環境問題について訴える、という、面白いものでした。
もしかするとどこかに台本があって、それをやっているところもあるかもしれませんので、詳しい内容については説明をハショります(^^;


しかし、この「自分の見ている“この色”が、他人には“別の色”に見えているのかもしれない」という問題。これは、認識論の古典的な、それもたいへん定番の問題なんですね。
そのように言うと「色盲」のことかと思う人が多いようですが、そうではありません。紙に印刷された絵を指でなぞっていく、というのを視覚検査でやったことのある人がいらっしゃるかと思いますが、色盲はそのような検査によってそれがあるかどうかを調べることができます。色盲というのは、色がC1とC2と二種類あったとして、他の人にはその区別がつくのに、その人には区別がつかない、という現象だからです。
秋山眞人の妻(名前がわかりませんので)が言ったのはこういうことです。「C1」と呼ばれる色と「C2」と呼ばれる色があり、Aさんが「あ、この色C1だね」と言うと、Bさんも「ほんとだ、C1だ」と答えます。そこで両者の頭の中をのぞいてみれたとしましょう。「C1」と呼ばれる色が、Aさんにそう見えている“見え”を仮に「c1」とします。同様に、「C2」のAさんへの“見え”を「c2」としましょう。ここでBさんの頭の中を見てみると、実は、Bさんには「C1」が「c2」に見えていて、「C2」が「c1」に見えていた、ということが明らかになりました。しかし、AさんとBさん、この二人の“見え”の食い違いは、コミュニケーションの中では決して明らかになりません。なぜなら、二人の中でその色がどのように見えていようが、その色の呼び方は両者で一致しているからです。
この問題の古典的な解決法としては、「この色」の定義を「この(自分自身への)“見え”」に求めるのは実は間違いであって、「この色」とは、多くの人が「この色」を「そう呼ぶようにしている」その社会的に合意されているルール(の集まり)を指すのだ、というものがあります。「この色」の意味がその「ことばの使い方」の問題に還元されるのであれば、「この色」がAさんとBさんとでは「別の色」に見える、というムジュンは一応の解消を見ることになりますが、それでも“見え”の違いは残りそうですよね。実際、視覚心理学によれば、同じ波長の光の視覚イメージは、個々人によって多少の幅があるそうです。というか、多少の幅が「ありうる」としたほうが正確そうですが(^^;

予知や透視ができるのなら、ギャンブルで一攫千金を狙えばいい。ところが予知や透視で大金を稼いだという超能力者の話はほとんど聞かない。だから超能力など存在しないのだ。
否定派の科学者たちがテレビや著作でよく力説する三段論法だ。別に科学者に限らない。超能力に対して半信半疑のスタンスを持つ人は、ほとんどがこの疑問にまず着眼する。(p.250)

前回お話しした、「実用性への疑問」の一種です。
この三段論法は、P=「超能力がある」、Q=「ギャンブルで勝つ」、と置くことにより、「(P→Q)∧(¬Q)→(¬P)」という論理式に変換することができます。このblogでは初見の「∧」という記号は「かつ(and)」と読みますが、論理式全体としては「(大前提)PならばQであり、かつ(小前提)Qでない、ならば、(結論)Pでない」ということで、これは「後件否定式」と呼ばれる論理的に妥当な推論となります。
要するに、この三段論法の形式それ自体には論理的に間違いがないので*1、この議論に正面から反対したければ、「P→Q」あるいは「¬Q」が事実上成り立たないということを示す必要があります*2。「P→Q」が成り立たないとは、要するに「超能力があっても、ギャンブルに勝てるわけじゃないんですよ」ということであり、「¬Q」が成り立たないとは、「ほら見ろ、勝ったぞ。これでどうだい」ということです。このどちらも証明できないのであれば、その議論に正面から答えることを諦めねばなりません。


こうした論理的な難問は、たとえば宗教哲学などにもあります。ジョン=ヒック『宗教の哲学』ISBN:4326152885

有神論に対する挑戦として、悪の問題は伝統的に一つのディレンマの形で出されてきた。神が完全に愛ならば、神は悪を無くしたいと望まれるはずである。そして神が全能であるならば、神は悪を無くすことができるはずである。ところが悪が存在する。それゆえ、神は全能であると同時に、完全に愛であることはできない。(p.84)

このような哲学上の問題については、その疑問に正面から答える代わりに、その疑問を発している人が暗黙のうちに抱えている前提を“掘り崩す”ことによって、そもそもそのような疑問自体が成り立たないことを逆証明してしまうという手段のとられることもありました。これを「問題の解決」ならぬ「問題の解消」と呼びます。とはいえ、ぼくにはその解消法もうまくは思いつきませんが……。


あともう一回だけつづきます。

*1:三段論法とは、大前提A・小前提B・結論Cからなり、「Aであり、かつBであるならば、Cである」という形式をもった推論全般のことを指しています。これを論理式で書けば「(A∧B)→C」となります。しかし、“論法”などというのでたまに勘違いしている人を見かけますが、三段論法一般には実のところ論理的妥当性がありません。たとえば「魚は水中に住む。ところでこれは魚ではない。よってそれは水中に住まない」という推論も大前提・小前提・結論の形式を踏まえているので三段論法の一種ではありますが、エビやカニを思い浮かべるだけでわかるように、間違っています。三段論法の中でも正しい推論は、この「後件否定式」や「前件肯定式」をはじめ、一部に限られるので注意が必要です。

*2:2006-07-09追記:論理学に不案内な方にはわかりにくい書き方でした。「この三段論法の形式それ自体には論理的に間違いがない」というのはどういうことかと言うと、どちらかの前提の不成立が証明できないとき、それは両前提がともに成立したと見なされますが、その場合はこの結論「¬P」=「超能力は存在しない」を認めねばならなくなる、ということです。論理的に妥当でない三段論法の場合は、先の「魚」の推論のように、前提の成立を両方とも認めたとしてもなお結論の間違っている可能性があります。というわけで、今回のように妥当な三段論法を相手にする場合には、その結論を受け入れたくない場合、前提のどちらかが現実に成り立っていないということを証明する必要があるわけです。