森達也『スプーン』(1)

このところずっと森達也づいてるぼくですが、今回読んだのはこれです。


スプーン―超能力者の日常と憂鬱

スプーン―超能力者の日常と憂鬱

森達也の他のいくつかの本と同様、つくったドキュメンタリー作品の裏話的な本ですが、この本の題材は「超能力者」。「スプーン」という題名は、言わずもがなではありますが、この本の主人公の一人、清田益章の能力の一つである「スプーン曲げ」からきています。同著者で『職業欄はエスパー』ISBN:4043625022おり、この書名が実際に放映された番組のタイトル。こっちの本は未読なので知りませんが、改題したのかな?


オカルト、超能力といったことになると決まって顔を出す次のフレーズ。

「科学では説明できない」「科学では解明できない」「科学を超えた」

ぼくはこれを耳にするたび目にするたびに、ヤレヤレ、といつも思ってしまいます。そしてそう思うのには、もちろん、いくつもの理由があるのです。
まず、この世のあらゆることが解明されてしまった暁には、科学者のやることはなくなってしまっているでしょう。まだいくらでも解明すべきことがあるからこそ、彼らは失業せずに済んでいるのであって、そういうことが存在するのは当たり前といえば当たり前なのです。
また、カール=ポパーも言っているように、たとえば数学や論理学などは「科学では説明でき」ません。それは、実験してその真偽を確かめられるようなものではなく、かえって科学がそれに照らして正しいかどうかを確かめられるモノサシのような役割を果たしているからです。実験してその真偽が確かめられない、という意味では、哲学もそうですし、他にもいろいろとあるでしょう。


そして、もう一つ思うことは、「科学」ということばの意味に関わる問題です。科学といえば、つい個々の「科学的」と形容される方法論の中からそこに共通する「何とか性」を拾いだして、それらを兼ね備えたものこそ「科学」なのだ、と述べたくなる誘惑に駆られますが、もっと簡単な定義のしかたがあります。
「○○の原理」とか「○○の法則」とかいう言い方をしますが、これら科学的真理を体現する個々の命題は、しかしその後に「実は間違っていた」となることがあります。すると、「探求の方法はなるほど“科学的”であったが、何らかの原因でそこに間違いが入りこみ、結果として“科学的”でなくなってしまったのだ」という説明が後から付され、その後しばらくしてこうした命題は見向きもされなくなっていき、「科学的」とも「非科学的」とも言われることのない身分に落ち着きます。
現在「科学的真理」のメンバーとされている個々の命題は間違う可能性があり、そのことによって、時代とともに科学的真理の外延(メンバー)は変わっていきます。しかし、どんなにそのメンバーが変わったとしても、その集合であるはずの「科学的真理」の真理性それ自体は揺らぐことがありません。なぜなら、「科学」とは、「事実を判定する方法としては現代の全人類にとってこれが最上のものである」とされている「科学的方法」によって得られた真理の集合なのだからです。ここで「科学的方法」が具体的にはどんな方法なのかなんて関係がありません。それはその時代時代で変わっていきます。
「間違う可能性」というのをポパーの言い方を借りて「反証可能性」と言い換えてみれば、個々の科学的法則命題には反証可能性がありますが、その集合であるはずの「科学」それ自体には反証可能性はありません。経験的事実の判断に関して、科学は間違いません。なぜなら、間違わないようにそのつどそれを構成するメンバーが(アドホックに!)入れ替えられるからです。だから、「科学的に間違っている」というのは単に「間違っている」というのとほぼ同義だし、何らかの経験的事実について「科学的に説明できない」というのは、単に「説明できない」というのと同じことなのです。
先ほども述べたように、科学にはまだ解明すべき問題が山のようにあります。説明できないことも星の数ほどあります。そしてそれらが、後々きちんと解明されるという保証もありません。しかし、経験的事実の法則性の問題について、科学にわからないことは(その定義からしても)誰にもわかりません*1。だからここでわざわざ「科学」をけなすために「科学的に説明できない」などと言うこと自体がぼくにはとてもナンセンスに思われるのです。


ぼくが以上のような回りくどい言い方をすることで、わかる人にはわかると思いますが、この本でとりあげられている超能力や宇宙人、あるいは霊能力とかUFOの存在とかそういったものを、ぼくは否定しません
そうしたものの個々の事例としては、科学的に否定されるものも多かったでしょうが、全体としては依然としてたしかに「科学的に説明でき」ていないことであるとぼくは認識していますし、だからそうした現象に対する研究もあっていいと思います。そんな研究は役に立たない、なんて声が聞こえてきそうですが、それこそ太陽系を遠く離れたところで超新星爆発が起きたとかなんとかいう宇宙物理学の話だって、ぼくたちの実生活には役に立たないわけですから。好奇心の及ぶところ研究あり、とぼくは思いますし、天文学者福江純の言い方を借りれば、この分野だってある意味「cosmo incognita(未知なる世界)」と言えないこともないのじゃないか、と。
そういうわけで、こうしたことごとについて頭から否定してかかる大槻義彦は少なくともこの分野に関しては「科学者」として失格であり、この分野の言論人としては“小物”の部類に入ります。だから「と学会」の選ぶ「トンデモ大賞」の特別賞にも選ばれ、大槻教授自身がトンデモであると認定されました。著者が本書の終わりのほうで大槻教授についていろいろ言及し批判しているのは、すげなくされたからという私怨もあるからでしょうが、よく言われるように「バカを相手にするとバカになる」というわけで、相手にすべきではなかったでしょう。


ただ思うのは、科学が現在これほどの一般的な“信憑”を勝ち得ているのは、それが「スジが通っている」からとか「合理的」だからとかいうわけではないだろう、ということです。ぼくも含めて、本職の科学者あるいは科学論者でない人の多くは、科学というものを正確には理解できていません。誰もが相対性理論などの理論書を読みこなせるなんてことは実際ありませんしね(^^; そのように正確に理解できないことをそれでもなぜ「正しい」とぼくたちは思うのか。それは、「科学」という営みや科学者のもつ「社会的威信」、そして、現に飛行機が飛んだり洗濯機が回ったり月食を正確に予言してみせたりする科学の「実用性」への“信頼”からでしょう。
「スジが通っている」とか「合理的」だからとかいったことは、科学への信頼においてすら実際にはあまり関係のないことなのであって、だからそのことで、つまり「スジが通っていない」「合理的な説明がつかない」からオカルトや超能力が信頼されない、というような説明は、ぼくにはそれこそ“あまりスジの通らない”話のように思われます。
それではなぜ、オカルトや超能力はこれほど軽視されているのか? 科学について言ったことを裏返してみれば、つまり、オカルトや超能力には「社会的威信」がなく、「実用性」がないから、ではないのか。本書の中にも超能力と「マジック(手品)」との関係性の問題が出てきますが、「マジックと一緒にしないでくれ!」と超能力者が叫んだとしても、実際の効果として何か大きな違いがあるのだろうか。それどころか、マジックはだいたいいつも成功するのに、超能力のほうはしばしば失敗し、それが「今日はちょっと調子が悪かった」「カメラで撮られていると本気が出せない」といったエクスキューズによって、かえって価値が上昇するという“逆説的”な事態すら、そこには生じているのではないか。


「社会的威信」と「実用性」は、ぼくにはニワトリとタマゴのように思えるんですね。
いずれも初めから科学に備わっていたわけではなかったでしょう。その昔、ヨーロッパで「社会的威信」を認められていたのはキリスト教でありその教会でした。「実用性」の点でも、たとえば、コペルニクスガリレオの当時、天動説と地動説とのあいだにハッキリとした説明力の差があったわけではなかった*2。その差が決定的なものとなったのは、ケプラーが太陽系の惑星の楕円軌道運動を証明し、天動説が、そして地動説すらそれに依拠していた「真円軌道説」を放棄することになったからです。
オカルトや超能力が認められるようになっていくには、反科学的な姿勢をとり続けるのでは無しに、その実用性と社会的威信を少しずつ少しずつ拡大していく地道な努力の積み重ねが必要なのだと思います。ここで「反科学的な姿勢をとり続ける」べきではない当の主体は、オカルトや超能力の側の人々ばかりでなく、大槻義彦のような人にももちろん当てはまると言えるでしょう。


というところで、次回につづきます。

*1:この種の現象の“説明”として、「気」とか「波動」とか「集合無意識」とか「共時性」とかいろいろな述語が動員されますが、それらが論理的あるいは科学的な形式をふまえていない以上、その“説明”なるものはどんなにデキがよくても「イメージ」あるいは「たとえ話」の水準に留まるものであって、何かわかっていることについてそれを解説するという「説明」とは別のものです。

*2:ガリレオの「それでも地球は回る」というセリフは有名ですが、天動説と地動説それぞれの説得力に当時あまり違いがなかったことを考えると、そのセリフはある種の「信仰告白」として受けとるべきではないかと思われます。