瀬田季茂『科学捜査の事件簿』

こないだ「筆跡鑑定についてフォローしてみたい」と書きましたが、あのつづきになります。


「筆跡鑑定」についてGoogleで検索していただければわかると思いますが、この世界、というか業界は、かなり“微妙”であるようです。
筆跡鑑定の「応用分野」として有力なものは、ザッと見たかぎり3つ。「科学捜査」、「お宝鑑定」、そして「性格診断」のようでした。科学捜査に必要なのは明らかでしょう。「オリジナル」と「コピー(あるいは贋作)」の違いにセンシティブなお宝鑑定でも、科学捜査の場合と同じく「本人」のものであることを証明する強い動機がありますし、またそもそもその字自体が“お宝”であったりするので、その点でも必要とされます。
そして最後の「性格診断」。筆跡が、その人の性格を多少なりと反映するものであるのは、服装がその人の性格を部分的にではあれ反映するものであることからの類推によって、肯んじることができます。“性格”といってカドが立つなら、よりニュートラルで巧妙な言い回しである“文化圏”と言い換えてもかまいません。そしてこのことは、こないだの「人種によって筆跡が異なる」ということの主要なモチーフでもあったわけです。しかし、実はこの分野の存在が一番引っかかるんですよね。
Googleの検索で上位にヒットする、「筆跡心理学」を看板に掲げるあるサイトに訪れてみると、ホームページにいきなり「血液型」がババーン!と出てくる。ほら、うさんくさいでしょ。性格心理学の世界では棄却されたといっていい血液型性格学ならぬ「血液型占い」をツカミにもってきてるんだから。う〜む。
「筆跡鑑定」について知りたかったのにいきなり難航しそう。本が読みたかったのでそちらも調べてみたんですが、筆跡鑑定というジャンル自体がマイナーだからかそもそも出版点数が少ない上に、やっぱりよく出てくるのはあえて言えば「筆跡占い」系の本なんですよね。「お宝鑑定」系も、それはそれで気にならなくはないんですが、いまぼくが読みたいのは、職人の経験や勘に頼った「匠の技」的なお話なのではなくて、もっとずっと客観的な「理論」的著作でした。これがやっぱりあまり見あたらない。


というような経緯で、とりあえず手にしたのがこの本。

科学捜査の事件簿―証拠物件が語る犯罪の真相 (中公新書)

科学捜査の事件簿―証拠物件が語る犯罪の真相 (中公新書)

副題「証拠物件が語る犯罪の真相」。これですよこれ。というか、筆跡鑑定の話が出てきたのは冒頭の「ドレフュス事件」に少しと、中盤の「リンドバーグ愛児殺人事件」にちょこっと。いきおい筆跡鑑定はどうでもよくなってしまいました。
科学警察の研究は「法科学」(Forensics)とも言います。「フォレンジック」というと最近脚光を浴びはじめていることばなので耳にしたことのある人もいるかと思いますが、俗にその呼び名で知られだしていることは本来のフォレンジックのコンピュータ科学版です。この本ではその種の科学的な、たとえば指紋はなぜ存在しなぜ現場に残るのか、どうやって鑑定しているのかといった純理論的な話と、ドレフュス事件のような有名な事件の顛末や、指紋鑑定を犯罪捜査へ導入したという業績のプライオリティに関する科学者間の争いのような理論外的な話が交互に出てくるので、肩ひじ張らずに読めました。


しかし、この本を読んで感じていたのはもう少し別のことだったりして。
被疑者Aがやった可能性が高い、という状況証拠だけじゃなくて、それ以上に証拠物品こそが犯罪者を特定し事件の真相をあばく決定的な存在なのだ、という話が何度も出てきます。ゲーム『逆転裁判』の中でも、主人公・成歩堂龍一がとくとくと自分の推理を語ってみせると、すぐさま「異議あり! その証拠を見せてみろ!」とツッコまれて冷や汗をかく、という場面にしばしば遭遇します。
ぼくは、いわゆる「科学論」はこれをこそ問題にしなければならないのじゃないか、と思う。ある種の反科学的な、相対主義的な「科学論」者たちは、「理論が現実を生みだしているのであって、その逆ではない」ということを言いたがる。ぼくは、“弱い”意味でとるのであればそれを肯んじるにやぶさかではないのですが、この人たちはしばしば勇み足を踏んでもっと極端なことを言い出すわけですね。そういう人に対して「そんならお前、地上20階から飛び降りてみろよ」というのは至極まっとうだと思いますが、もう少し生産的な議論の仕方はないものだろうか。
科学哲学などでは、たとえば宇宙のようなマクロコスモスの問題、あるいはDNAのようなミクロコスモスの問題を事例として取り扱ったりします。科学の先端で研究されているそれらの事物は肉眼で見ることかなわず、門外漢にとってはまったく及びもつかないものばかり。だからいきおい議論が抽象的なところに飛躍して、それが空回りしてただの“ことば遊び”になってしまってもかまわないわけですね。ガリレオが「それでも地球は回る」と言ったというお話がありますが、ぼくなら「それでも飛行機は飛ぶ」とでも言いたいところです。
「科学論」者は自分の問題意識をしばしば「アクチュアル」ということばで形容します。「科学」という一見純論理的な世界に、科学者間の派閥争いの問題やそのコミュニティと外部とのインタフェースの問題等、論理外的な「政治」の動きをそこに強く見いだす視座があるから、というわけです。反科学的な「科学論」者の多くは同時に反権力・反体制思想の持ち主でもあります。しかしそれならば、科学警察の問題は、アクチュアルといえばこれほどアクチュアルな問題はなかなか他に無いでしょう。多くの人の人生を国家権力を動員して(!)大幅に左右するのですから。その現場に行って、「その『指紋』は社会的な構築物に過ぎない」とか言えるものなら言ってみてください、と。このへんの話は、白井駿『犯罪の現象学ISBN:4834400549『<責任>のゆくえ』ISBN:4787231006追求されていますが、ぼくは「科学論」をやっている方々にぜひともこの問題に取り組んでみていただきたいと思う。
「事件の真相」って、「真犯人」って、「冤罪」って、何?