愛のわけまえ

道徳感情についての、論理的な思考実験をちょっとメモ。


ぼくたちは、というか少なくともぼくは、世界のすべての人をわけへだてなく愛さなければいけない、とは思えません。←ここちょっと注意。「思いません」じゃなくて「思えません」ということで、できるのにやらないわけじゃなくて、そもそもできないんですね。そういう、「博愛精神」の持ち主ではない以上は、他人に対して何らかの好き嫌い、要するに“好み”を持つことでしょう。
ところで、「この人を何人までは好いてよい」「この人を何人までは嫌ってよい」という、上限というか制限みたいなものがありうるとすれば、それは確実にバラけるでしょうけども、実際にはそれはありえないわけですよね。とすれば、そういう制限のない状態では、必然的に、好かれる人・嫌われる人の偏りが生じることになります。
逆の言い方をするなら、「好かれる人・嫌われる人の分布に偏りがあってはならない」としたら、(1)人が人に対して好き嫌いの感情を持つことそれ自体を制限するか、(2)人が人から好き嫌いの感情を持たれること自体を制限するか、どちらか(あるいはその両方)を「すべきである」と主張せねばなりません。そのどちらの途もとれないのだとしたら、この世に人の好き嫌いの分布に何らかの偏りが生じること、それ自体は認めねばならない、ということになります*1
たとえそこまで認めたうえでも、なお、「あってよい偏り」と「あってはならない偏り」の区別、「ここまではよい」または「これ以上はダメ」という偏りの程度を、訴えることができる。そのようにしてある種の“防衛ライン”を引くことは、しかし一方で、それでは一体どういう基準でラインを引けるのか、という問題を呼びこむことになります。


とりあえずこんなところまで。

*1:そのどちらも本当に主張できないのかどうか、それはわかりませんよ。もしかするとできるかもしれない。できそうだと思われるなら、いったいどのような仕方で可能なのか、教えてくださいね。