現実的な「賢い」生き方のために(3)

社会の変化によって、現代は、生きていくために必要な知識が膨大になってしまいました。アリストテレスのように一人の学者がすべての学問を修めることなど夢のまた夢です。このような世の中では、必然的に「社会的分業」が要請されることになります。


どんな仕事だってそうだと思うんですが、現代において仕事というものは、それができない人の代わりにするものと言うことができます。翻訳や通訳が商売になるのは、外語ができないけれどもそれをお金を払ってでも必要としている人たちが一方にいるからです。ラーメン屋が存在するのは、能力のためか材料かはたまた時間の問題か、ともかくラーメンがつくれないけれども、お金を払ってでもラーメンが食べたいという人たちが一方にいるからです。売る人と買う人のあいだには必ずなにがしかのギャップ(格差)があって、そのギャップを埋めるかたちで利潤が発生する仕組みになっています。
社会的な関係で問題が起きたら弁護士に相談し、健康上の問題が発生したら医者にかかり、世情を知るためにマスメディアに接する。専門家に頼るということは、ぼくたちが日常生活をあたりまえのように営んでいく上で避けて通れません。誰も、その生業の他に、弁護士と医者とジャーナリストを兼務することなど不可能なのですから。
フランシス=ベーコンは「四つのイドラ」を批判しました。学問の姿勢として、また批判的思考の在り方として、それはもっともなことなのですが、実生活上これに100%従うことは不可能と言っていい。それは一人の人間を取ってみてもそうだし、社会のシステム全体にしてもそうなのです。イドラを完全に排した個人や社会の在り方が実現可能であるかのように、そしてすべての社会的行為が何が何でもそれに従うべきであるかのように喧伝するのは、デマの一種であるとぼくは思います。
人間のヒトとしての生物学的特質を政治的に否定してきた左翼知識人たちに対して、ピーター=シンガーは「現実的な左翼に進化せよ」と言いました。ムリヤリ現実を飛び越えようとする思想は世界の至るところで粛正の嵐を引き起こしました*1。ぼくたちは、あくまで現実を尊重しつつ、理想を見すえて考えていかなければいけません。結論を先取りするならば、ぼくたちは現実の問題に直面するとき、その時点で把握しうる様々なコストとベネフィットを秤にかける中で、「とりあえずの最善」をそのつど選びとってゆく以外に仕方がないのです。


少々先を急ぎました。ここで少し話を戻します。
たとえばここに人が10人いて、共同生活を始めたとします。この10人はそれぞれ生まれが異なり、そのためバラバラ母語をもっていました。それぞれが自分の母語で一方的に話をしていては、まったく話が通じません。人は一人で生きてはいけないわけではないかもしれませんが、不便であるのは疑えないでしょう。だとすれば、人々は自分の都合を考えるうちに、他の人とコミュニケーションをはかる方向へ向かっていくことになります。その方法は、もしかすると単なるジェスチャーに留まるかもしれませんし、もう少し踏み込んで、互いに承認する“ことば”のルールを定めることになるかもしれません。ここで注目したいのは、それがジェスチャーであれ何であれ、ある共通のコミュニケーションルールが、そこに誕生している、ということです。
日常生活の便益を考えた場合に、「共通語」でも「常識」でもなんでもいいですが、ある一定のルールが人々のあいだで共有されることは避けられませんし、それ自体を非難すべきでもありません。でなければ、世の中かえって生きにくくてしょうがなくなるからです。社会学のある流派ではこのようなことを「複雑性の縮減」と呼び、政治・経済学の分野では「ソーシャルキャピタル」と呼ばれるのですが、そのようなことが生じるのは自然なエコノミーの必然的帰結なのです。言語哲学にいう「principle of charity」も、認知科学にいう「ステレオタイプ」も、前回から縷々述べてきた「専門家への信頼」も、この複雑性の縮減の一事例です。


難しいのは、だからといって「他人に頼る」ということに問題がないわけではないのだ、というところ。それは大雑把に言って、頼る側の問題と、頼られる側の問題に分けることができます。
頼る側の問題に挙げられるものとして、コンピュータ業界ではおなじみの「教えて君」が思い起こされました。

これによれば、教えて君の“真骨頂”は「自分は努力せず、相手には多大な努力をさせること」とされています。このようなフリーライダーの問題は常について回ることでしょう。ここには、ぼくが以前から注目している「無償に対する軽意」*2の問題がありますが、それについては機会を改めて述べたいと思います。
頼られる側の問題としては、頼られる側も無謬ではないということと、頼る側との格差を悪用する可能性が挙げられると思います。このへんは専門家倫理の出番だと思うので深入りはしませんが、一つ指摘しておくべきことは、「頼った人間がバカ、自己責任」で済ませてよいのか、ということではないでしょうか。
初回に述べたように、人間のものごとの判断の態勢は「ヒューリスティクス」であって、「三誤る」可能性を持っています。しかし現代は、少しの誤りが爆発的に増幅される可能性のある時代です。必要なのは、人間は間違えて当然なのであって、間違えても自身があまり痛手を負わず、周りにもあまり迷惑をかけなくてすむような、「フールプルーフ」を備えた社会のシステムを構築していくことだろうとぼくは思います。


以上をまとめるなら、
ヒューリスティクスは大事だよ、原理原則的思考は現実的じゃないよ、現実的な問題解決法には常に誤る可能性がついて回るよ、だからちょっとぐらい間違ったって人生投げなくてもすむような社会システムをつくろうよ、
ということになるでしょうか。
現代の日本が、少しのミスも許さない無菌室社会、監視社会、そして「自己コントロールの檻」(森真一)に向かってまっしぐらに進んでいることに、ぼくは強い懸念を覚えます。複雑性の縮減はもちろん必要(必然)なのですが、だからといってどこぞの校則のように何から何まで厳しくルールに縛られるのでは、これまた息苦しくて仕方がない。いったい何のためにルールがあるのか。それはあくまでぼく(たち)が生きやすい世の中のために必要だからであって、その逆、つまりルールを守るためにぼく(たち)は生きているわけではないのです。だから当然、ゆるめられることはゆるめていく仕組みもまた、社会にとって必要でしょう。世の中が「人にやさしい」、もっと度量が広くて寛容(charity)で、もっとユルユルな社会になってほしいと、ぼくは願ってやみません*3

*1:「理想社会」を築くためのもっとも手っ取り早い方法は、理想に沿わない現実を実際にぶち壊すことであり、その実践がすなわち粛正という名の虐殺です。

*2:この「軽意」はタイポではなく、「敬意」をもじったものです。以前述べた「作者の死」の話に関わりがあります。

*3:社会の無菌室化を批判する点では近いですが、こういう考えなので、ぼくは森岡正博の「無痛文明論」に首肯することができません。