現実的な「賢い」生き方のために(2)

以前、こんな相談をされたことがありました。近所の子どもが天動説を唱えるので、地動説を教えようとがんばったのだけどうまく説明できなかった、どうしたらいいか、と。ぼくは迷った挙句、このように答えました*1

「ぼくたち素人にとって、そうしたことは基本的には、科学者や理科の先生が“正しい”と太鼓判を押している地動説をウノミにすることで我慢するしかないんじゃないでしょうか」

この言い方が、相手の意図したものではなく、そして説明不十分だったために、あまり納得がいかなかったようです。しかし、このような言い方でぼくが言おうとしていたのは、だいたい次のようなことでした。


科学法則の真偽の判断には様々なレベルにおける専門的な知識が必要とされます。扱っている概念についての知識、関連する諸領域との整合性、実験装置の扱い方、等々。もちろん、ある立場を表明することによって学会内で自分がどのようなポジションに着くことを望むのか、という、非常に「政治」的な判断もそこには存在しています。そのような諸々の高度な判断の集積として、ある学説が「定説」として受け入れられるようになるわけですが、ここで一つだけ注目しておきたいのは「データの正しさ」ということです。
科学法則の真偽の最低限の根拠となるのが、経験的事実を矛盾なく説明できるか、ということになるかと思いますが、ここで言われる「経験的事実」というものは、ある程度高度な議論になってしまうと素人にはどうしようもなくなってしまう類のものなんですね。先の相談では「天動説」と「地動説」のどちらが正しいかという話でしたが、たぶん一般的な素人の経験だけをもって言うならば、どちらとも区別がつかない、あえて自分にウソをつかずにぶっちゃけて言えば、天動説のほうが正しそう、ということにならないでしょうか。なぜなら、素人にはそれがほぼすべてであるような日常的な経験の世界において、ぼくたちは自分の周りをめぐる太陽の姿しか見たことがないのだからです。
データが何よりも大事なのに、素人にはろくなデータがない。もちろん、その筋の「専門家」であるところの科学者の多くも、ティコ=ブラーエのように実際に天体観測をしてデータを集めたわけではない。ここで本当に疑おうと思ったら、いくらでも疑えるんですね。誰か他人が出した実験や観測の結果なんて、どこまで行っても捏造の可能性が0%にはならない。だって自分がじかに確かめたわけじゃないんですから。そしてこういうことを言いだしたら、キリがなくなります。「NASAは月にウサギが住んでいることを隠している」という陰謀論にまで発展させようと思えばできるわけです*2
こういう懐疑の連鎖は、しかし、実際にはあまり深追いされることなく、常識的な判断によって中途で“棚上げ”されます。「あの人の言うことだから、たぶんそうなんだろう」というように。これは批判的思考としては正しい態度とは言えませんが、ぼくが先に述べた「ウノミ」というのは、実はこのような事態を指していったものなのです。


現代において、ぼくも含めた多くの大人たちが、なぜ天動説でなく地動説を正しいものと考えているのか。それは、そういった仮説の正しさを詳細に吟味した末に納得したからではありません。もちろん経験的に事実と認められたからというわけではなおさらありえません。ぼくたちが子どものころ信頼した大人からそう教わったからであり、ぼくたちがその権威を認める科学者がそう言っているからであり、そしてそのような説が反証されたというニュースをぼくたちが耳にしてこなかったからなのです。


まだつづく。

*1:このような言い方をわざわざするぼく自身が、「正しい認識」ということに強く囚われているじゃないか、と思ったそこのあなた。そのとおりです。

*2:デカルトはそれをやって、「我思う、ゆえに我あり」というある種の真理に到達したわけですが、それこそ素人のできることではありません(^^;