なぜ子どもはかわいいのか

子どもの写っている写真があったので、ぼーっとしばらく見てたんですが。ふと、「そういや、なんで子どもは“かわいい”んだろう」という疑問が頭をよぎってみたり。
ちょっと突き詰めて考えてみることにしました。「子どもがかわいい」というのは、要するに、ある人が「かわいい」と思える特質を「子どもが」備えている、ということ。ここには二つのポイントがあります。「人が何かを“かわいい”と思う」というのと、「それを“子どもが”備えている」というところです。すると、はじめの「なぜ“子どもはかわいい”のか」という問題は、これに合わせて「なぜ『人が何かを“かわいい”と思う』のか、そして、なぜ『それを“子どもが”備えている』のか」という形に変形することができます*1
なぜ「人が何かを“かわいい”と思う」のかという問題は、ぼくの手には余るので脇に置いておきます。とりあえず、人が何かを好もしく思う、という現象のあることだけ踏まえておきましょう。では、なぜ「それを“子どもが”備えている」のかということについて、思いつくまま書いてみようと思います。


基本的に、人間を含めた生物が何かの特質を持っているのは、そのように進化したからであり、進化が起こるのはそれ以外のものが淘汰されることによります。淘汰とは遺伝子を後世に残せないということですが、これには大きく分けて、事故や病気その他の原因により子をなす前に死んでしまう場合(自然淘汰)と、異性とつがえずに一生を終えてしまう場合(性淘汰)の二つの契機(?)があります。進化とは、生き残りをかけた戦い、そして異性をかけた戦いの結果としてあるものなのです。
「子どもがかわいい」のは、進化論的に考えるなら、そうでないものは淘汰されてしまっただろうからということになります。
ここでこの問題を性淘汰の面から考えてみましょう。子どもは、定義上、直接子をなすことはできませんから、その「かわいらしさ」が何か間接的に性淘汰に関わる場合というものを探してみます。すると、かわいらしい子どもは成長すると魅力的な成人になるので性的な競争を勝ち残ることができた、というストーリーが浮かび上がってきます。この説には少なからぬ説得力がある。なぜなら、「面影」と言われるように、顔の大まかな輪郭は成長の前後である程度保存されるので、外見的に魅力のある成人が幼少期にかわいらしかった可能性は高そうに思われるからです。
しかし、「美しい=かわいい」でしょうか。成人の性的魅力、美しさの中には、子ども時代のかわいらしさとは別種の、成人ならではの魅力というものが確実にあるでしょう。そんな人の幼少期の顔だちは、いわゆる「かわいい」とは異なるかもしれません。そういったケースや、あるいはあまり魅力的でない成人の幼少期も含めて、それは「子ども」という概念の定義の一つででもあるかのように、「子ども時代はかわいかった」と考えられるのが実態と言えるのではないでしょうか。


そこで次に、自然淘汰の面でこのことを考えてみるとどうなるでしょうか。子どもの「かわいらしさ」は、生存競争の賜物である、と。かわいいということと生き残りやすいということに直接の因果関係があるかどうかはよくわかりませんので、ここでは相関関係を疑うことになります。
今「因果関係」と「相関関係」ということばが出てきましたが、このことばを知らず区別がつかない人のために簡単に説明してみます。たとえば、「平均睡眠時間が8時間の人は、6時間の人に比べて死亡率が高い」というデータが存在しますが*2、それではあなたが毎日8時間眠ったなら、6時間だけ眠った場合に比べて亡くなりやすくなるのでしょうか? そうは言えません。ここにあるのは因果関係ではなくて、相関関係だからです。相関関係の場合、検討している二つの指標のあいだにはいくつか別の指標が隠れています。8時間の人が死にやすいのは、体が弱くて床に伏せっている人などが集計の際にこちらに含まれたからです。8時間寝ることが直接死につながるわけではありません*3
要するに、相関関係を疑うとは、かわいいから“X”である、“X”だから生き残りやすい(「かわいい→“X”→生き残りやすい」、あるいはその逆向き)とか、あるいは、同じ“X”という原因から、かわいらしさも生き残りやすさもどちらも出てくる(「かわいい←“X”→生き残りやすい」)とか、そういった場合の中間項「X」は何かを探るということです。一番単純な発想としては、この“X”として何らかの遺伝子を仮定することですね。ある意味では単なるラベルの張り替えに過ぎないとも言えますから、説明としてはかなり弱いものですが。それから、子どもをかわいいと見なすことが、親の遺伝子の保存の見地からメリットがあった、という説は十分にありえます。どんな子どもでも子どもであるだけでかわいらしく思える、というのも、その延長線上の問題として考えることもできます。


他にもいろいろ考えられますが、一つその可能性に思い当たったこと。
ここでの要点は「自然淘汰」ですね。ということは、もっと直截に言えば、「かわいくない子どもは生きていけなかった(子をなす前に死んでしまった)」ということにならないでしょうか。昔は「多産多死」型の社会で、子どもが死ぬのはごく日常的なことでした。生まれすぎて養えないからと「子捨て」や「間引き」も当たり前のように行なわれていました。子どもは無償の愛を受けて育まれるもの、という考え方は人間の本能でもなんでもなく、長い人類の歴史から言えば、食うのに困らなくなったつい最近の“はやり”に過ぎません。だとすると。
そういえば、狼は人に養われて犬になり、山猫は人に養われて猫になり、猪は人に養われることで豚になったのでした。原石のような状態にあった“子ども”も、人に養われることで「かわいい子ども」になったのではないか。なぜそんなことが実現したのか? ……ちょっと恐い考えにだんだん傾いてきました。ここらへんでとりあえず筆を置きたいと思います。

*1:こういう議論の進め方は「分析哲学」の定石。目的の問題が厳密にはどういう意味で、実際にはどのような部分問題の複合によってできていて、なおかつ、その各部分問題に対してどのように答えるのが妥当なのかを探っていく、というやり方です。

*2:学生時代にコンビニで深夜バイトをしていたとき、どうやったらうまく睡眠がとれるのかと思って、睡眠関係の本を何冊も読んだうちの一冊にそんなグラフが載っていました。

*3:因果関係と相関関係の違いに関して、こんな本も面白いかも。金原克範『“子”のつく名前の女の子は頭がいい』ISBN:4896915828。もちろん、娘の名前に「子」をつければそれでいいかという話ではありません。