ウェブの広がりと参入障壁(2)

ウェブの進化、ということばにはいくつかの落とし穴があります。とりあえず思いついたのは二つ。一つ、それを単に「ウェブのシステムの進化」として語ってしまうこと。もう一つは、「進化」ということばの意味に関わることです。
ウェブの進化、といっても、ウェブにはいくつもの構成要素があって、そのそれぞれが進化することで、ウェブの進化はもたらされているわけですね。ところが、「ウェブの進化」という看板を目にすると、ぼくたちはどうしても、「ウェブ(にしか存在しないもの)の進化」というふうに読んでしまうのです。だから、ウェブにしか存在しないわけじゃないけどウェブに関わっているものの、ウェブがらみの進化ということについては視野から外れてしまう。その最たるものは「ウェブの利用者」だろうと思います。
このことは、「進化」ということばのぼくたちの受け取り方からも引き起こされる。いや、ここで進化論を引きあいに出したいわけじゃないんです。進化ということば遣いが気になるなら、「進歩」と読みかえてください。ともかく、単純に「○○の進化」といった場合に、ぼくたちの目はどうしても、進化の度合いの大きいもの、早いもの、激しいものに向かってしまう。進化の度合いの激しいものの代表はコンピュータシステムでしょう。その逆に、ですよ。ウェブのシステムが進化することによって、ウェブサービスを利用する敷居(コスト)が下がった。そのことによって利用者が増えるわけですが、そのようにして増えた人たちを、「ウェブシステムを使えない人たち」と見る見方は未だに存在しています。つまり、ウェブの利用者については、進化するどころか「退化」した、という見方があるわけです。「使っているが、使えていない」という言い方はその象徴でしょう。


しかし、それは本当だろうか。ウェブの進化というものを、ウェブのコンテンツの進化であると考えると、それを提供するハード(=コンピュータシステム)だけが進化したと考えるのは不自然な現状否認であって、ソフトも進化したわけでしょう。そして、ウェブ上の「ソフト」 ── コンピュータによって提供されるもの以外のすべて ── を産みだしたのはウェブの利用者なのだから、ウェブの利用者だって、総体としては常に進化しているのです。
そのような、ウェブの利用者による進化は、ウェブの広がりによってもたらされてきた。ウェブの広がりは、先ほども述べたように、ウェブを利用する敷居が低くなることによって進んだ。つまりそれは、ウェブの参入障壁の低下によって起こった、と言えるでしょう。
たとえば、ぼくがネットにアクセスし始めた頃は、Mosaicというブラウザが使われていました。Lynxのようなテキストベースのブラウザもありましたが、それに比べて画像を扱えるため、表現力が増しています*1。このMosaicの出現によって初めて、「画像を扱える人」にウェブ上での表現の場が開かれました。当時はまだ、ウェブというものがあまり一般に開かれておらず、だからその効果は当時の実際としてはそれほど大きなものではなかったでしょう。それでも、画像を作成することによって表現を行なう人たちは、Lynxではそれができなかったのですから、それを実現するMosaicという「ハード」の出現とともに、それ以前には存在できなかった表現者がウェブ上に表現の場がもてるようになり、それによってウェブコンテンツが進化した、ということは明らかに言うことができると思います。


というところで、今日はここまで。あとちょっとだけ続きます。

*1:当時のブラウザ事情を知らない人にはあまりピンとこない話だと思いますので、その感じをたとえてみると、IEFirefoxSafariのようなブラウザによるウェブの外見が「Word」であるとしたら、Lynxには「メモ帳」のようにウェブが見えるんですね。Lynxの使い勝手としては、携帯電話によるウェブへのアクセス、あれが正にそうです。MosaicLynxに比べ、ページ中に画像を表示できるようになりました。ページ自体の背景色は灰色でしたので、見た感じ、今の2ちゃんねるとよく似ていました。