伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

「第一章 変化するマンガ、機能しないマンガ言説」。
のっけからこれです。要は、「(旧来の)マンガ評論家よ、お前はすでに死んでいる。」というのがこの章の基本モチーフと言えるでしょう。


マンガは、その出版点数、発行部数からいって今や日本の“メインカルチャー”である、と断言して過言ではないと思います。その割に、というべきか、そのために、というべきかはわかりませんが、人によって「マンガ」というものに抱くイメージには大きなバラツキがある。
呉智英が書いてましたが、「マンガを読むとバカになる」という言い方を聞いた人、した人はそれなりに多いのじゃないでしょうか。ぼくも親戚のおじさんから「マンガなんか読まないでしょ」なんてことを言われたことがありましたが、こういうマンガに対する否定的な反応は、しかし、あまり世代に関係なさそうな感じもしています。
世代としてはあまりに有名な、団塊の世代、と言われる人たち。「団塊の世代」というのは要するに戦後最初のベビーブーム期に生まれた人々のことであって、たくさんいるから「団塊」と呼ばれたのですが、そろそろ還暦を迎えます。マンガに対する世代別の反応のデータみたいなものがあったら見させていただけたらと思いますが、この世代の人からマンガに対する否定的反応を受けた覚えがぼくにはあります。
ところが一方、この世代の人たちは一方で「全共闘世代」と呼ばれる世代とも重なり、1960年代に学生運動をやっていた当時、「右手にジャーナル、左手にマガジン」と言っていた人たちでもある。「ジャーナル」とは左翼論壇誌『朝日ジャーナル』ですが、この「マガジン」というのは実は『週刊少年マガジン』のことなんですね。そしてまた、1970年に極左セクトによる日航よど号ハイジャック事件が起きましたが、その際に犯人たちは「われわれは“あしたのジョー”である」という声明を出しました。
そういう人たちでも、年をとったら「マンガを読むとバカになる」みたいなことを言うようになるわけですよ。もしくは、たとえば手塚治虫とか、つげ義春とか、あるいは白土三平だとかを持ち出して、われわれの頃にはこうだったのに、今のものときたら……というような言い方をしたりする。
ぼくはここにハッキリと、「今時の若いもんは」論のニオイを感じます。アメリカンジョークにあった話だと思いますが、古代人の遺跡を発掘しました、調べてみるとそこの壁に何やら文字が刻まれている、と。一生懸命解読してみたところ、「今、どきの……若いもん、は…」と書いてあった、というオチなんですけど。いつの時代も年寄りは「今時の若いもんは」と言いたがる。それはたぶんぼくたちも年をとったらそうなるものなんであって、ある反応の特質を「世代」に帰属させるよりは、「年代」のほうを先に疑ったほうがいいようにぼくには思われます。
少年犯罪で「ユニバーサルカーブ」なんてことが言われます。年代別の殺人件数のグラフをつくると、どこの国でも、いつの時代でも、だいたい同じ形の曲線を描く。もちろんそれは、“活きのいい”20代を極端なピークとした山型の曲線なんですけど、日本の現行世代では、ユニバーサルカーブに比べて圧倒的に若年者の起こす殺人が少なくて、「おとなし過ぎる」とかえって話題になっています。そんなふうに年代の法則を破った場合に初めて世代論の出番が回ってくるのじゃないだろうか、なんて思うわけです。


この本の第一章を読んでいて初めに頭に浮かんだのは、うちのオカンのポップス評でした。
美空ひばりラブな世代の人ですから、今時の流行歌に対してどんなことを言っているのか、ご想像のとおりです。うちのオカンはよく言っていました、昔の歌手はきちんと音楽学校を出てレッスンを積んでデビューしたのに、今時の歌手ときたら、だから「何を言ってるんだかよくわからない」歌ばかりになるんだ、と。ぼくは学生時代にほんの少し合唱や声楽をかじっただけの人間ですが、そのぼくの耳に言わせれば、今の歌手より昔の歌手のほうが全般的にヘタだったように聞こえます。ほんとに音楽学校出てたのか、それは単なるアンタの思いこみじゃないのかね、と。
どっちが正しいかはわかりません。わかりませんが、ここにはなにがしかの次元を異にする断絶があって、簡単にどっちが上だとか下だとか、きちんと検証もせずに言うことはできないだろうこと。そして、昔のモノサシを“今時”のものに当てはめようとしたって、うまくいかないことも多いのだ、ということがわかっていただければOKです。
従来のマンガ評論家がそのモノサシを無自覚無反省にふるってきたことに対する、明確な批判をつきつけたこと、そのことにこの章の価値はあります。