ソメイヨシノの「起源」?

ソメイヨシノ済州島生まれ?

で、ここからは『桜が創った「日本」』の余談になりますが、

始原の桜語りでは、ソメイヨシノには低い価値しかあたえられない。新しい桜であり、済州島伊豆半島周辺か江戸か、いずれにせよ日本文化の本来の中心地から遠い地で生まれ、人工的に増殖していった不自然な桜である。(p.149、強調引用者)

……ん?「済州島」?
すごく唐突に思いました。何でここでいきなり済州島が出てくるんだろう。それまでソメイヨシノは染井で生まれたって何度も書いてたじゃないか、と。
ちょっと調べてみたところ、どうも「ソメイヨシノ済州島起源説」というものがあるようです。これはあれですか、李寧煕(イ=ヨンヒ)『もうひとつの万葉集ISBN:4167539012。前言を翻すようではありますが、「日本のものは(何でも)もともと朝鮮のものだ」と言いたがる人たちの心性が気になります。ジャイアンですか。それともあの人たちはあまりマジで言ってるのではなくて、その受け取られ方も「源義経が大陸に渡ってジンギスカンになった」とか「キリストの墓が青森にある」レベルなんですかね(^^;;;

桜語りと「セカイ系

戦後の桜語りのなかで、桜に深い意味を求める様式が広く普及する一方で、語られる内容は大きく散乱していく。いわば一人一人が思い思いに、桜に深い意味を見いだすようになっていったのである。(pp.164-165)

桜の精神論が植物学や資料をしたがえる巨大な観念の物語をめざしたのに対して、戦後の桜語りの多くは植物学や資料と無関係に思いつきや想像で「歴史」を語る。(中略)繊細な情緒と安易な断定が共存するところに、戦後の桜語りの戦後らしさがある。(p.170、強調原著者)

戦後の桜語りではたんに感情や記憶が個人化されているだけではない。むしろそれが極度に主観化され、個人の内面へと後退していくことで、「みんな」の感情や記憶を召喚する。(中略)モノローグに純化することで無媒介的に「みんな」へ直結されるのだ。(p.173)

桜がでてくると、なぜか突然「古来から」や「日本人」が呼び出されてくる。(p.175)

個人の観念が隣近所や職場仲間といった中間集団を媒介せずにそのまま「ワレワレ日本人」(=セカイ)へと直接してしまう、このパターンは(いわゆる)「セカイ系」なのかな、と。
で、こういう語り方をする人たちが誰かといえば、「特に昭和ゼロ年代生まれの世代にはその傾向が強いようだ。(中略)もっと若い世代でも大きく違うわけではない」(p.167)というわけで、言説の型としては遅くてもこの頃の人たち(昭和ヒトケタ生まれ)からすでに始まっていたのじゃないか、なんて言ってみちゃったりして。