マトモな哲学のすすめ(7)

マトモな哲学のためのブックガイド・その4

哲学入門記事のつづき、8年ぶりのブックガイドです(^^;


前回までは哲学入門ということで、「哲学の考え方や歴史」といった基礎的なことに焦点を当てたラインナップを紹介しました。
久々のブックガイドとなる今回は、より身近に、「哲学を使ってどんなことが考えられるのか」という応用的な話、他分野とのクロスオーバー、またここ最近新しく出てきたトピックに焦点を当て、「マトモな哲学は、具体的な問題や、さまざまな分野について考えるときに“使える”道具なんですよ」ということをお伝えできたらと思います。*1
「哲学」って、ガリガリ頭をかきむしったり、俺はお前らとは違うぜと世をすねてみたり、よくわからない詩のようなものを詠んでみたり、…そういうものとはぜんぜん違うんですよ。そんな誤解をしてしまうのは、高校倫理と、トンデモ哲学と、そして謎めいた“おことば”を無闇やたらとありがたがる一部の「現代思想」ファンのせいではないかと。
というところで。


進化と人間行動

進化と人間行動

犯罪の生物学―遺伝・進化・環境・倫理

犯罪の生物学―遺伝・進化・環境・倫理

  • 作者:D.C. ロウ
  • 発売日: 2009/09/01
  • メディア: 単行本

自然界を分析する際のキー概念は「力」ですが、人間界(=社会)を考えるとき、それに対応するようなキー概念は「利害」(利得、コストベネフィット)だろうとぼくは思ってまして。
自然的なできごとは力のつりあいがとれた状態に向かうためそのような均衡状態が一番実現しやすいですが、世の中やヒトのあり方もそれと同様、利害のつりあいがとれた状態が一番実現しやすいと考えられます。前から同じことをときどき書いてますが、「この世の事実」を客観的に記述するのに経済学と進化論(ネオ・ダーウィニズム)は強力な武器になる、というのはそういう意味です。*2 *3
進化論の知見を取り込んだ比較的最近の学問分野として、進化経済学進化心理学、進化人類学、進化倫理学、…等々といったものがあることをご存知でしょうか? これらの本は、そうした分野に関する大学教養レベルの教科書や啓蒙書。
「三大欲求」や「本能」という言葉がありますが、家族や隣人と協力して日々の暮らしを営んだり、異性を好きになったりあるいは浮気してみたり、ときに犯罪に走ったり、といったことごとの背後には、その行為を起こさせた<心理状況>があり、そうした心の状態を実現させた<生物学的基盤>があり、そして現在のヒトのあり方をつくりあげた<進化論的背景>があります。
「3年目の浮気」なんて歌もありましたが(古くてすみません(^^;)、人間とは何か、どのような行いが“仕方がない”として免責されるべきなのか、近親相姦はなぜいけない(ということになっている)のか?、等々といった倫理的・哲学的課題に取り組むのに、これらの知見を踏まえることは避けて通れない道であると言ってよいでしょう。*4


進化心理学は「なぜヒトの心はこのようになったのか、このようなあり方をしているのか」という問題を、ヒトという生物種の歩んできた(それこそ進化論的スパンの)歴史という壮大な観点から探求する学問分野ですが、「現に今ヒトの心はどのようになっているか」さらには「そもそも心とは何か」といった哲学的課題を追求するのが「心の哲学」と呼ばれる領域です。


心の哲学入門

心の哲学入門

これら3冊は、「心」のソフト的な側面に焦点を当てた本です。
「ロボットは心をもつことができるのか?」という問いから、<心>という概念の正体に迫る『ロボットの心』。それをもう少しだけ専門的かつ教科書的にまとめた『心の哲学入門』。
『マッチ箱の脳』は、ゲームソフト『がんばれ森川君2号』や『アストロノーカ』の作者・森川幸人による、ニューラルネットワーク(神経回路網)や遺伝的アルゴリズムといった人工知能の“ソフト的な仕掛け”をとてもわかりやすく解説した絵本のような本。そもそも出てくる例がそのゲームソフトなので、プレイしたことのある方はより実感しやすいかもしれません。
遺伝的アルゴリズムについてはこんな解説動画もあります。*5



この流れで紹介する次の3冊は、「心」のハード的な側面(=脳)に焦点を当てたもの。


本場アメリカでは「Neurophilosophy」と言い、Neuroとは神経(脳神経)のことなのでそのまま直訳で「神経哲学」、と暫定的に呼ばれています。…という奥歯にモノの挟まったような言いようをしているのは、非常に新しい分野なので訳語が定着しているとは言いにくいため。
神経哲学は脳神経科学と哲学(倫理学)のクロスオーバーであり、罪の意識を感じるとき脳のどこが活性化されるかとか、与薬するとハッピーになってしまうクスリの是非とか、脳とコンピューターの接続による「人間」概念の変化(拡張)だとかいった、脳神経に関する問題に特化した議論を行っていますが、もっと広く、脳と心の働きを探求する認知科学と哲学のクロスオーバーを「認知哲学」と呼ぶ向きもあります。これは訳語の問題以前に、用語としてあまり確立していない感じがしてますが…*6


こうした心の哲学の議論の中で、とりわけ興味深い問題の一つをここで紹介しましょう。アメリカの神経科学者、ベンジャミン・リベットによる心理実験です。
被験者に時計を見せつつ、好きなように手を動かすよう指示し、「手を動かそうとした」ときの時刻を報告してもらいます。このとき頭と腕に計測機械をつけて神経の活動を確認したのですが、この実験によりわかったことは次のようなことでした。

(1)実際に手を動かす少し前に、頭のほうで神経活動の活性化が生じた。(=脳神経活動の後で手が動いた)
(2)しかし、それよりさらに前に、腕のほうで神経活動の活性化が生じた。(=腕の神経活動の後で脳神経活動が生じた)

この時間的前後関係を単純に「因果関係」と捉えるとしたら、(1)の結果だけなら「手を動かそうと思ったので手が動いた」と言えるところが、(2)の結果を加味すると「手が動こうとしたから手を動かそうと思った」という逆の結論が出てきそうです。
この実験結果は、「人間は実は<自由意志>を持たないのではないか」(自由意志と思っているものは、起きたことに対する後追いの解釈(もっと言えば、言い訳)に過ぎないのではないか)という深刻な疑問を呼び寄せることになりました。


日本の刑法39条には次のような条文が記されています。

心神喪失及び心神耗弱)
第39条 心神喪失者の行為は、罰しない。
2 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。

精神的に異常な状態に陥っている人が犯したことは、犯罪として罰しないか、酌量する、というものです。
極端なたとえ話になりますが、あなたがあるとき催眠術にかけられ、眠っている間に誰かを殺してしまったとします。この結果だけを見ると殺人を犯しているので殺人罪に問われてもおかしくないのですが、自分が「やろう」と思ってやったわけでもないことで極刑を受けるのは、釈然としなくないでしょうか。
…といった議論からこのような規定があるわけなのですが、要するに「人は、自分の意志で行ったことについては責任をもつべきであり、その逆に、自分の意志で行ったのでないことについて責任を問うべきではない」という哲学が前提にあって、そのような話になるわけですね。
するとですよ? リベットの実験が「人間に自由意志はない」ということを意味しているのだとしたら。すべての犯罪は免責されるのでしょうか? それとも逆に、刑法39条が廃棄されるべきなのでしょうか?


ここから先は、自由意志はあるのか無いのかという人間哲学と、刑事責任をどう問うべきなのかという法哲学の専門的な議論になってしまいますので、この辺にして。


ある種の社会的圧力のことを「権力」と呼び、あるいはそれを行使しまた服従するぼくら人間のあり方を、哲学者・思想家・社会学者・政治学者といった人々が「権力への意志」とか「超自我」とか「生-権力」とか「第三者の審級」といった抽象的あるいはアイマイなことばを用いて*7 その解明にとりくんできた問題圏へ、「オッカムの剃刀」と言うべき自然科学のメスがついに入り始めました。
脳と社会のかかわりという観点から、たとえば「“空気を読む”とき脳は実際に何をしているのか」とか「社会的圧力はどのような医学生理学的理由によって生じるのか」といったことを実験や考察によって究明する、それが<社会脳>研究です。まだまだ新しい分野のため、この入門書では「どのように研究を進めていくか」「何を目指して研究をするのか」といった話もかなりの紙幅を費やして論じられています。

筆者は鋭い理系のクワをもって豊かな文系(人文知)の畑を耕すことが社会脳研究という先端科学を育てる手だてであると信じている。
苧阪直行『道徳の神経哲学』、p.iv)

「シビュラシステム」や「免罪体質」といったアニメ『サイコパス』に登場する社会のあり方を、こうした観点から考えてみるのも面白いことかもしれません。
この流れでこちらの動画シリーズもご紹介。「コンピュータは人間を超えることができるのか?」ということで分析哲学でも長い間議論されている、人工知能の「技術的特異点」についての非常にわかりやすい解説動画。




「心のあり方」や「人間とは何ぞや」といった問い、また道徳的直観とその起源に関わる分野の紹介が続いたので、ここらへんで別の分野に方向転換。…と思ったのですが、ここまで書いてけっこうな文量になりましたので、つづきはまた今度。


前回までの記事はこちら。

*1:そのため、今回紹介させていただく本には“純粋な”「哲学書」でないものもいろいろ混じってます。「本」とか「頭の体操」といったタグをつけた他の記事を見ていただくとわかると思いますが、ぼくは「面白そう」と思った本をジャンルにこだわらず手当たりしだいに読む本の虫なので、広い心と生暖かい目で見守っていただきたく…(^^;

*2:昔書いた記事の中から該当するものの一例をば。→森達也『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』(1) - hideo's hideout.森達也『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』(2) - hideo's hideout.

*3:詐欺的な広告メールがいつまでも無くならないのは、あんな内容でも数を打てば引っかかる人が一定数いて詐欺師が「儲かってしまう」からですし、マスコミがときに事件被害者をスクープ欲しさに追い回すといった“良識を疑う”行いに出たりするのも、そういったものを見たがる視聴者が一定数いて「視聴率が稼げてしまう」からです。その意味で、悪事のあり方はその社会を映す鏡である、ということができるでしょう。
純粋にやる側のメリット(利得)の有無で、これらの“悪事”はなされる。世の中のことはすべて良きにつけ悪しきにつけ否応なくこのようにして決まってしまうものだ、とぼくは考えています。一見自己犠牲的に見える行いも、「それをしないと気が済まない」感情を落ち着かせるメリットがあるから実行に移されるのです。ぼくも、自分の責任感の強さがイヤでイヤで仕方ありません…(ーー; 関連記事→過労について(2) - hideo's hideout.

*4:今どきの経済学や進化論をきちんと理解するには、さらにその素養として「ゲーム理論」という数学の一分野を知っている必要があります。ゲーム理論に関する書籍はたくさん出てますので、何冊か当たってみて肌に合うものを読んでいただければよいかと。とはいえ、それは本格的に勉強を始めると必要になることであって、ここで紹介したような本を読むのに事前に頭に入れている必要はまったくありません。初心者・初学者向けの入門書・啓蒙書ばかりを紹介してますので。

*5:最初にいろんな行動パターンをもったマリオをランダムにつくり、実際にそれでゲームをしてみて、「より前に進んだ」マリオたちを二人ずつ一組にしてその子どもをつくります。子どもには親の行動パターンが遺伝しており、実際の遺伝子と同様親のパターンを半分ずつ受け継ぎつつ一部ランダム化されています。今度はその子どもマリオたちでゲームをし、その中から親となるマリオを選んで、…を繰り返す、というのがこの動画でやっていることです。以上のように、生物進化の法則をそのままなぞっているので遺伝的アルゴリズムと言います。
この動画のニューラルネットワーク版も実はあるんですが、仕組みがより複雑なので見てもよくわからないかも。脳神経の情報伝達の方法をなぞっている、ということだけ理解していただければ。→ニューラルネットワークでマリオを教育してみた 修正版 - ニコニコ動画

*6:ぼくも「認知哲学」と聞くと、学術の領域というよりはチャーチランドのあの分厚い本のほうを思い浮かべてしまいます。→ポール・M・チャーチランド『認知哲学』[asin:4782801114]

*7:《抽象的》とは「具体的」の反意語で「個々の具体的なものの中からエキスを抽出した」という意味のことばであり、《アイマイ(曖昧)》とは「あやふやでよくわからない、ハッキリしない」という意味です。
ここではその二つを横並びに書いていますが、どちらも「複数のことがらに当てはまり、個別的な内容を持たない」という点で同じところはあれど、本質的には似て非なることばと言えます。なぜなら、《抽象的》な概念は一般的かつ“明確な”意味をもちますが、《アイマイ》な概念はあやふやで意味が定まらないからこそ複数の対象に当てはまる“かのように見える”のですから。この二つは次のようなテストで簡単に区別することができます。外延たる具体例を挙げての“検算”が可能なら《抽象的》、そうでなければ《アイマイ》である、と。
たとえば中学校の数学で教わる「ピタゴラスの定理」は、「すべての直角三角形に共通する性質」ということで個別的な内容を持ちませんが、直角三角形の実物を一つでも例にとってみることで「ほんとだ、成り立ってる」と確認できますよね。だからそのような性質をもつ数学や自然科学の議論は十分に《抽象的》と呼ぶことができるでしょう。《抽象的》な概念は具体的なものから一般的な意味を“抽出した”ものなのですから、その逆に、それを抽出元に当てはめ返すこともまた可能なのです。“検算”とはこのことを指しています。
では一方、ポストモダン思想などの一見したところ一般的かつ深遠な“真理”について述べているように見える文章はどうでしょうか。数学のもつ《抽象性》とはだいぶ様子が異なるということはすぐに理解されることと思います。ぼくなどはその類の記述に触れるたびに、その議論に当てはまる具体例がとんと思いつかず、その確からしさ・妥当性を確かめようがなくて途方に暮れる感覚に襲われることがしばしばです。《抽象的》とは言えないのですから、これは《アイマイ》としか言いようがないでしょう。
他の誰にもその議論の正しさが証明できなくて、その人が言ってるから正しそうだということになってしまっていること。これをぼくは「トンデモ」と呼んでいました。だとすれば、《アイマイ》であること、これこそ正にトンデモ哲学の“トンデモ性”そのものなのです。トンデモ哲学の信者の方々は往々にしてそれを「抽象的だから難しいのだ」という言い方で弁護しようとしますが、ぼくに言わせればそれは「抽象的なんじゃなくて単にアイマイで何を言ってるかわからないだけでしょう」ということになる。ソーカルの『「知」の欺瞞』の原題は「Fashionable Nonsense」といいますが、まったくその通りだと思います。